さても、源大納言通方の預かり奉られし阿波の院の宮は、大人び給ふままに、御心ばへもいと警策に、御容もいとうるはしく、気高くやむごとなき御有様なれば、並べて世の人もいと新しき事に思ひ聞こえけり。大納言さへ、暦仁の頃失せにしかば、いよいよ真心に仕うまつる人もなく、心細げにて、何を待つとしもなく、係ひておはしますも、人悪くあぢきなう思さるべし。御母は、土御門の内大臣通親の御子に、宰相中将通宗とて、若くて失せにし人の御娘なり。それさへ隠れ給ひにしかば、宰相の同胞の姫君ぞ、御乳母のやうにて、瞿曇弥の釈迦仏養ひ奉りけん心地して、おはしける。
さて、源大納言通方(源通方)に預けられた阿波院(第八十三代土御門院)の宮(邦仁親王。後の第八十八代後嵯峨天皇)は、成長するにつれ、心はとても警策([人柄・容姿・物事などがすぐれてりっぱなこと])で、顔かたちはたいそう美しく、気品があってしっかりしておられましたので、世の者たちは一人残らず珍しいことと驚いたのでございます。大納言(源通方)も、暦仁の頃(暦仁元年(1239))亡くなり、ますます一心に仕える者もなく、心細そうに、誰を待つともなく、付き合っておいででしたが、人もよくないこととやるせなく思っておいででございました。邦仁親母は、土御門内大臣通親(土御門通親=源通親)の子で、宰相通宗(源通宗)と申す、若くして亡くなった人の娘(源通子)でございました。母もお亡くなりになられて、宰相(源通宗)の妹であられた姫君(源在子)が、乳母のように大切にされて、瞿曇弥([釈迦の出家前までの姓])が釈迦仏を養うようなお気持ちで、おられました。
(続く)