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「平治物語」頼朝義兵を挙げらるる事並びに平家退治の事(その7)

九郎判官は、梶原平三が讒言によつて、都の住居難儀なりしかば、また奥州に下り、秀衡ひでひらを頼みて過ごされけるが、秀衡一期の後、鎌倉殿より泰衡やすひらをすかして判官を討たせ、後に泰衡をも亡ぼされけるこそ恐ろしけれ。かくて日本国残る所なく討ち従へ給ふて、建久けんきう元年十一月七日、始めて京上りせられけるに、近江国千の松原と言ふ所に着かせ給ひ、浅井の北郡の老翁を尋らるるに、二人の老者をて参る。土瓶二つを持参せり。「あれはいかに」と問ひ給へば、「君の昔聞こし召されしにごり酒なり」と申せば、「まことにさる事あり」とて、三度かたぶけて、「汝、子はなきか」と仰せければ、「候ふ」とて奉る。すなはち召し具せられけるが、足立が子になされて、足立新三郎清常きよつねとて、近習の者にてありけるなり。さて、「この翁に引出物せよ」と仰せありしかば、白鞍きたる馬二匹、色々の重宝入れたる長持二合ぞうだりける。また昔の鵜飼ひを召し出だして、小平をやがて賜ひてけり。




九郎判官(源義経)は、梶原平三(梶原景時かげとき)の讒言によって、都(鎌倉)で住むことが難しくなったので、また奥州に下って、秀衡(藤原秀衡)を頼って過ごしていましたが、秀衡が亡くなった後、鎌倉殿(源頼朝。清盛の兄)は泰衡(藤原泰衡。秀衡の嫡男)をなだめすかして判官(義経)を討たせ、後に泰衡も亡ぼしたことは恐ろしいことでした。こうして頼朝は日本国残る所なく討ち従えて、建久元年(1190)十一月七日に、はじめて京に上りましたが、近江国の千の松原(今の滋賀県彦根市)という所に着いて、浅井の北郡(今の滋賀県長浜市)の老翁を探させると、二人の老者を連れて来ました。土瓶を二つ持ってきました。頼朝が、「あれは何か」と聞くと、老者は、「君(頼朝)が昔お聞きになったにごり酒でございます」と申したので、頼朝は、「そんなことがあったな」と言って、三度杯を傾けて、「お主よ、子はいないのか」と言うと、老者は、「おります」と言って頼朝に差し出しました。頼朝はすぐに家来にしましたが、足立の子にして、足立新三郎清常(足立清常)といい、近習([主君のそば近くに仕える役])の者になりました。頼朝は、「この翁に引出物を与えよ」と言ったので、白鞍([鞍の前輪まへわ後輪しづわの表面を銀で張り包んだもの])を置いた馬を二匹、様々な重宝を入れた長持([箱])を二つ与えました。また昔会った鵜飼いを呼び出して、小平(今の滋賀県栗東市小平井あたり?)を与えました。


続く


by santalab | 2013-12-17 19:32 | 平治物語

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