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「平治物語」頼朝義兵を挙げらるる事並びに平家退治の事(その9)

この太刀に付きて数多あまたの説あり。頼朝の卿、関が原にて捕らはれ給ひし時、随身せられたりしかば、清盛の手に渡つて、院へ参りけりと云々。またある説には、今のはまことの髭切にはあらず。まことの太刀は以前より青墓あふはか大炊おほいが許より参らせけるなり。そのゆへは、兵衛すけ、大炊にあづけられけるを、頼朝囚人となり給ひし時、この太刀を尋ねられけるに、今は隠しても何かせんとや思はれけん、ありのままに申されけり。すなはち大炊が許へ尋られけるに、「源氏の重代を、平家の方へ渡さんずる事こそ悲しけれ。兵衛佐こそ斬られ給ふとも、義朝よしともの君達おほければ、よも跡は絶え給はじ。先づ隠して見んと思ひければ、泉水とて、同じほどなる太刀ありけるを、抜き替へて参らする。髭切は、柄鞘つかさや円作りなり。定めて佐殿に見せ参らせらるべし。佐殿、童と一つ心になりて、子細なしとのたまはば、もとよりの事なり。もしこれにはあらずと申されば、女の事にてさぶらへば、取違へ候ひけりと申さんに、苦しからじ」と思案して、泉水を上せけるなり。難波六郎経家つねいへ、受け取つて上りけるを、やがて頼朝に見せ奉りて、「これか」と問はれけるに、あらぬ太刀とは思はれけれども、長者が心を推量して、そなる由をぞ申されける。清盛大きに喜びて、秘蔵せられけるを、院へ召されけるなり。まことの髭切は、先年大炊が方より参らせけると云々。




この太刀(髭切)には多くの説がありました。頼朝卿(源頼朝)が、関が原(今の岐阜県不破郡関ケ原町)で捕らわれた時に、身に着けていましたが、清盛の手に渡って、院御所に参ったとも言われています。またある説では、それは本当の髭切ではないということです。本当の髭切は以前より青墓(かつて岐阜県不破郡にあった青墓村)の大炊の許より持って参ったものです。その訳は、兵衛佐(頼朝)は、大炊に髭切を預けましたが、頼朝が囚人になった時、この太刀の行方を訊ねられたので、今は隠しても仕方ないと思って、ありのままに申したということです。すぐに大炊の許へ訪ねると、「源氏の重代([先祖伝来の宝物])を、平家方に渡すのは悲しいことだ。兵衛佐が斬られることになっても、義朝(源義朝。頼朝の父)の子は多ければ、源氏の後継ぎが絶えることはないであろう。とりあえず隠しておこうと思って、泉水という、同じような太刀があったので、抜き替えて院に持って参ったのです。髭切は、柄鞘は円作り([鞘・柄とも断面が楕円形になるように作ったもの])でした。きっと頼朝に確認させることでしょう。頼朝が、童(使いの者)に心通じて、問題ありませんと言えば、何も心配ありません。もしこれではないと言えば、女が、取り違えましたと申したところで、具合が悪いということもない」と思案して、泉水を京に届けたのです。難波六郎経家(難波経家)が、受け取って京に上りましたが、すぐに頼朝に見せて、「これが髭切か」と問いました、頼朝はこの太刀ではないと思いましたが、長者(大炊)の心を推し量って、そうですと答えました。清盛はたいそう喜んで、秘蔵していましたが、後白河院に差し上げました。本当の髭切は、先年大炊が院御所に持って参ったということです。


続く


by santalab | 2013-12-17 19:45 | 平治物語

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