この太刀に付きて数多の説あり。頼朝の卿、関が原にて捕らはれ給ひし時、随身せられたりしかば、清盛の手に渡つて、院へ参りけりと云々。またある説には、今のはまことの髭切にはあらず。まことの太刀は以前より青墓の大炊が許より参らせけるなり。その故は、兵衛佐、大炊に預けられけるを、頼朝囚人となり給ひし時、この太刀を尋ねられけるに、今は隠しても何かせんとや思はれけん、ありのままに申されけり。すなはち大炊が許へ尋られけるに、「源氏の重代を、平家の方へ渡さんずる事こそ悲しけれ。兵衛佐こそ斬られ給ふとも、義朝の君達多ければ、よも跡は絶え給はじ。先づ隠して見んと思ひければ、泉水とて、同じほどなる太刀ありけるを、抜き替へて参らする。髭切は、柄鞘円作りなり。定めて佐殿に見せ参らせらるべし。佐殿、童と一つ心になりて、子細なしとのたまはば、もとよりの事なり。もしこれにはあらずと申されば、女の事にて候へば、取違へ候ひけりと申さんに、苦しからじ」と思案して、泉水を上せけるなり。難波六郎経家、受け取つて上りけるを、やがて頼朝に見せ奉りて、「これか」と問はれけるに、あらぬ太刀とは思はれけれども、長者が心を推量して、そなる由をぞ申されける。清盛大きに喜びて、秘蔵せられけるを、院へ召されけるなり。まことの髭切は、先年大炊が方より参らせけると云々。
この太刀(髭切)には多くの説がありました。頼朝卿(源頼朝)が、関が原(今の岐阜県不破郡関ケ原町)で捕らわれた時に、身に着けていましたが、清盛の手に渡って、院御所に参ったとも言われています。またある説では、それは本当の髭切ではないということです。本当の髭切は以前より青墓(かつて岐阜県不破郡にあった青墓村)の大炊の許より持って参ったものです。その訳は、兵衛佐(頼朝)は、大炊に髭切を預けましたが、頼朝が囚人になった時、この太刀の行方を訊ねられたので、今は隠しても仕方ないと思って、ありのままに申したということです。すぐに大炊の許へ訪ねると、「源氏の重代([先祖伝来の宝物])を、平家方に渡すのは悲しいことだ。兵衛佐が斬られることになっても、義朝(源義朝。頼朝の父)の子は多ければ、源氏の後継ぎが絶えることはないであろう。とりあえず隠しておこうと思って、泉水という、同じような太刀があったので、抜き替えて院に持って参ったのです。髭切は、柄鞘は円作り([鞘・柄とも断面が楕円形になるように作ったもの])でした。きっと頼朝に確認させることでしょう。頼朝が、童(使いの者)に心通じて、問題ありませんと言えば、何も心配ありません。もしこれではないと言えば、女が、取り違えましたと申したところで、具合が悪いということもない」と思案して、泉水を京に届けたのです。難波六郎経家(難波経家)が、受け取って京に上りましたが、すぐに頼朝に見せて、「これが髭切か」と問いました、頼朝はこの太刀ではないと思いましたが、長者(大炊)の心を推し量って、そうですと答えました。清盛はたいそう喜んで、秘蔵していましたが、後白河院に差し上げました。本当の髭切は、先年大炊が院御所に持って参ったということです。
(続く)