人々見給はずや。昔東国の殿ばらは、平家の宮仕へせしには徒歩足にて上り下りしぞかし。故殿鎌倉を建てさせ給ひて、京都の宮仕へも止みぬ。恩賞打ち続き楽しみ栄えてあるぞかし。故殿の御恩をば、いつの世にか報じ尽し奉るべき。身の為恩の為、三代将軍の御墓をば、いかでか京家の馬の蹄に駆くべき。ただ今各々申し切るべし。宣旨に従はんと思はれば、先づ尼を殺して鎌倉中を焼き払ひて後、京へ参り給へ」と泣き泣きのたまひければ、大名ども伏目になりて居たるところに、赤地の錦の袋に入たる黄金作りの太刀二振り、手づから取り出だして、「これこそ故殿の身を離し給はぬ御佩刀とて、形見に持ちたれども、これが鎌倉のある門出なれば」とて、足利殿に参らせらる。畏まつて賜はられけり。
そなたたちなら知っているのでしょう、昔東国の殿たちは、平家に宮仕えする時には徒歩で上り下りしていたものです。故殿(源頼朝)が鎌倉を建ててから、京都への宮仕えもなくなりました恩賞も度々あり楽しみも数多くなったのですよ。故殿(頼朝)の恩に、いつ報いることができるでしょう。そなた自身のため故殿の恩に報いるためです、三代将軍(源実朝)の墓を、どうして京家(朝廷)の者たちの馬の蹄で荒らされなければならないのでしょう。今こそ各々覚悟の時です。宣旨に従おうと思うのなら、まずこの尼を殺して鎌倉忠を焼き払った後に、京に参りなさい」と泣く泣く申したので、大名たちは目を伏せました、北条政子は赤地の錦の袋に入った黄金作りの太刀([太刀の金具を金銅づくりにしたもの])を二振り、みずから取り出して、「これは故殿(頼朝)が身から離さなかった佩刀([貴人の帯びている太刀])です、形見として手元に置いていましたが、鎌倉の門出ですから」と申して、足利殿(足利義氏)に与えました。義氏は畏まってこれを賜りました。
(続く)