そのほど、都には、いと浮かびたる事ども、心の引き引き言ひしろふ。「佐渡院の宮たちにや」など聞こえければ、修明門院にも、御心時めきして、内々その御用意などし給ふ。藻璧門院も、もしやなど、様々御祈りし給ふ。東の使ひ、都に入る由聞こゆる日は、両女院より白河に人を立てて、いづ方へか参ると、見せられけるぞ理に、げに今見ゆべき事なれども、物の心許なきは、さ思ゆるわざぞかしと、例の口すげみて微笑む。
その頃、都では、あやふやなことを、思う思いに噂し合っておりました。「次の帝は佐渡院(第八十四代順徳院)の宮たちのいずれかか」などと聞こえてきたので、修明門院修明門院(第八十二代後鳥羽院の寵妃で順徳院の生母。藤原重子)では、ときめき立って、藻璧門院(第八十六代後堀河天皇中宮、藤原竴子=九条竴子。第八十七代四条天皇の生母)もしかしたらと、様々に祈祷などいたしておられました。東国(鎌倉幕府)からの使いが、都に入ると聞こえたので、両女院は白河(現京都市左京区)に人を立てて、どうなったかと聞かせに遣られたのも当然のことでした。すぐに分かることでございましたが、心配のあまりそうされたのだと、いつものように口をすぼめて噂し合ったのでございます。
(続く)