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「義経記」遮那王殿元服の事(その2)

「かくて下り、秀衡ひでひらが名をば何と言ふぞと問はんに、遮那王しやなわうと言うて、をとこになりたる甲斐かひなし。これにて名を改へもせで行かば、定めて元服せよと言はれんずらん。秀衡は我々が為には相伝さうでんの者なり。他のそしりもあるぞかし。これは熱田あつた明神みやうじん御前おまへ、しかも兵衛ひやうゑすけ殿の母御前もこれにおはします。これにて思ひ立たん」とて、精進しやうじん潔斎して大明神だいみやうじんに御まゐりあり。大宮司、吉次きちじも御伴仕り、二人におほせけるは、「左馬さま頭殿かうのとのの子ども、嫡子悪源太あくげんだ、次男朝長ともなが、三男兵衛の佐、四郎蒲殿かばどの、五郎禅師の君、六郎ろくらうきやうの君、七郎は悪禅師あくぜんじの君、我は左馬の八郎とこそ言はるべきに、保元ほうげんの合戦に叔父をぢ鎮西の八郎名を流し給ひし事なれば、その跡を継がん事由なし。すゑになるとも苦しかるまじ。我は左馬の九郎くらうと言はるべし。実名じちみやう祖父おほぢ為義ためよし、父は義朝よしとも、兄は義平よしひらまうしける。我は義経と言はれん」とて、昨日きのふまでは遮那王殿、今日けふは左馬の九郎くらう義経と名を変へて、熱田あつたの宮を打ち過ぎ、何と鳴海なるみ塩干潟しほひがた三河みかはの国八橋やつはしを打ち越えて、遠江とほたうみの国の浜名の橋を眺めてとほらせ給ひけり。




遮那王は「こうして下るにしても、秀衡(藤原秀衡)が名を何と言うと訊ねた時、遮那王と答えたのでは男として情けないことだ。ここで名を変えなくても、きっと元服せよと言われるに違いない。秀衡は我々源氏にとって相伝([代々伝えること])の家来である。他の者の謗りもあるだろう。ここは熱田明神の御前でもあるし、しかも兵衛佐殿(源頼朝)の母御前(由良ゆら御前)もここにおられる。ここで名を改めよう」と申して、精進潔斎([肉食を断ち、行いを慎んで身を清めること])して熱田大明神に参詣しました。大宮司、吉次も供に参ったので、遮那王が二人に申すには、「左馬頭殿(源義朝よしとも。遮那王の父)の子どもは、嫡子悪源太(源義平よしひら)、二男朝長(源朝長)、三男兵衛佐(源頼朝)、四郎蒲殿(源範頼のりより)、五郎禅師の君(阿野全成ぜんじよう。義朝の七男)、六郎は卿君(源義円ぎゑん。義朝の八男)、七郎は悪禅師の君(阿野全成のことですが?)、わたしは左馬八郎(義朝の四男義門よしかど、五男希義まれよしが抜けているので、変なことになっちゃってます)と呼ばれるべきだが、保元の合戦(保元の乱(1156))で叔父である鎮西八郎(源為朝ためよし)が悪名を流したので、その後を継ぐのも詮のないこと。末になろうと気にすることはない。わたしは左馬九郎だ。実名は祖父は為義(源為義。義朝、為朝の父)、父は義朝、兄は義平(悪源太)と申す。わたしは義経と名乗ろう」と申しました、昨日までは遮那王、今日からは左馬九郎義経と名を変えて、熱田宮を出て、鳴海(愛知県名古屋市緑区)の塩干潟、三河国の八橋(愛知県知立ちりふ市)を越えて、遠江国の浜名橋(静岡県浜松市、湖西市の浜名川にかかっていた橋)を眺めながら通り過ぎました。


続く


by santalab | 2013-12-22 09:16 | 義経記

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