『汝が父は伊勢の国二見の浦の者とかや。遠国の人にてありしが、伊勢のかんらひ義連と言ひしなり。左馬の頭殿の御不便にせられ参らせたりけるが、思ひの外の事ありて、この国にありし時、汝を妊して、七月と言ひしに、終にむなしくなりしなり』と申ししかば、父は伊勢のかんらひと言ひければ、我をば伊勢の三郎と申す。父が義連と名告れば、我は義盛と名告り候ふ。この年来平家の世になり、源氏は皆亡び果てて、たまたま残り止まり給ひしも押し篭められ、散り散りに渡らせ給ふと、承りしほどに、便りも知らず、まして尋ねて参る事もなし。心に物を思ひて候ひつるに、今君を見参らせ、御目にかかり申す事三世の契りと存じながら、八幡大菩薩の御引き合はせとこそ存じ候へ」とて、来し方行く末の物語互ひに申し開き、ただ仮初めの様にありしかども、その時御目にかかり始めて、又心なくして、奥州に御供して、治承四年源平の乱出で来しかば、御身に添ふ影の如くにて、鎌倉殿御仲不快にならせ給ひし時までも、奥州に御供して、名を後の世に上げたりし、伊勢の三郎義盛とは、その時の宿の主なり。
「お前の父は伊勢国二見の浦の者とか申しておりました。遠国の人でございました、伊勢のかんらひ義連(伊勢義連)申すお人です。左馬頭殿(源義朝)に大切にされておられましたが、思いの外の事あって、この国に移られて、お前を孕んで、七箇月のことですが、亡くなくなってしまいました」と申したので、父が伊勢のかんらひと申したのなら、わたしは伊勢三郎と呼ぶことにしたのです。父が義連と名乗っていたので、わたしは義盛と名乗りました。源氏は皆亡び果てて、たまたま残った者も押し籠められ、散り散りになられたとお聞きしましたが、便りも知らず、ましてお訪ねすることもございませんでした。気かがりではございましたが、今君(源義経)にお目にかかるのも三世([前世・現世・ 来世])の契りと申しながら、八幡大菩薩のお引き合はせと思えてなりません」と申して、今までのこと行く末のことを互いに話して、一時の縁のような出会いでしたが、その時に会って、義盛には二心なく、奥州に供をして、治承四年(1180)に源平の乱が起こってからは、義経の影のように付き従って、義経が鎌倉殿(源頼朝。義経の兄)と仲違いした時にも、奥州まで供をして、名を後世に残した、伊勢三郎義盛(伊勢義盛)とは、この時の宿の主でした。
(続く)