商人の習ひにて、ここかしこにて日を送りけるほどに、九日先に発ち参らせたるが、今追ひ着き給ひける。吉次御曹司を見付け参らせて、世にうれしくぞ思ひける。御曹司も御覧じて、うれしくぞ思し召す。「陵が事は如何に」と申しければ、「頼まれず候ふ間、家に火をかけて散々に焼き払ひ、これまで来たるなり」と仰せられければ、吉次今の心地して、恐ろしくぞ思ひける。「御供の人は如何なる人ぞ」と申せば、「上野の足柄の者ぞ」と仰せられける。「今は御供要るまじ。君御着き候ひて後、尋ねて下り給へ。後に妻女の嘆き給ふべきも痛はしくこそ候へ。自然の事候はん時こそ御伴候はめ」とてやうやうに止めければ、伊勢の三郎をば上野へぞ返されける。それよりして治承四年を待たれけるこそ久しけれ。
商人の習性で、吉次はあちらこちらで日を送っていたので、義経の九日前に室の八島(現栃木県栃木市にある大神神社)を立っていましたが、義経は吉次に追い付きました。吉次は御曹司(源義経)を見付けてとてもうれしく思いました。御曹司もまた吉次を見てうれしく思いました。吉次が「陵(堀頼重。源光重の三男)の件はどうなりましたか」と訊ねると、義経は「頼りにならないと思ったので、家に火をかけて散々に焼き払い、これまでやって来たのだ」と申したので、吉次はたった今のことのような気がして、恐ろしくなりました。吉次が「お供の人は誰でしょうか」と訊ねると、義経は「上野の足柄(現群馬県南足柄市)の者だ」と申しました。吉次は供(伊勢義盛)に「今はお供は必要ない。君(義経)が奥州に着いた後に、訪ねて参れ。それからお主の妻女が悲しむのもかわいそうだ。事が起こればお伴すればよかろう」と様々に言い宥めたので、義経も伊勢三郎(義盛)を上野国に返しました。伊勢義盛は治承四年(1181)まで長く上野国で待つことになりました。
(続く)