二人の女房ども、若君を抱き奉て、「ただ我々を失ひ給へ」とて、天に仰ぎ地に伏して、泣き悲しめども甲斐ぞなき。ややあつて重房、涙を抑へて申しけるは、「今はいかにも叶はせ給ふべからず」とて、急ぎ乳母の懐の内より、若君引き出だし参らせ、腰の刀にて押し伏せて、終に首をぞ掻いてげる。首をば判官に見せんとて取つてゆく。二人の女房ども、徒歩はだしにて追つ付き、「なにか苦しう候ふべき。御首をば賜つて、御孝養し参らせ候はん」と申しければ、判官情けある人にて、「もつともさるべし。疾う疾う」とて賜びにけり。二人の女房ども、斜めならずによろこび、これを取つて懐に引き入れて、泣く泣く京の方へ帰るとぞ見えし。その後五六日して、桂川に女房二人身を投げたりと言ふことありけり。一人幼き人の首を懐に入れて、沈みたりしは、この若君の乳母の女房にてぞありける。今一人骸を抱いて沈みたりしは、介錯の女房なり。乳母が思ひ切るは、せめていかがせん、介錯の女房さへ、身を投げるこそ哀れなれ。
二人の女房たちは、若君を抱いて、「代わりにわたしたちを殺してください」と言って、天を仰ぎ地に伏して、泣き悲しみましたがどうにもなりませんでした。少しあって重房(河越重房)が、涙を抑えて言うには、「今度はどうしても願いを叶えることはできないのだ」と言って、急ぎ乳母の懐の中から、副将(平能宗。宗盛の次男)を引き出し、腰の刀で押し伏せて、首を落としました。その首を判官(源清盛)に見せるために持っていきました。二人の女房たちは、はだしで追い付き、「どうしてもがまんできません。副将の首をもらって、孝養([後世を弔うこと])させてください」と申した、義経は情けのある人でしたので、「お前たちのいうことはもっともだ。早く持っていけ」と言って差し出しました。二人の女房たちは、とてもよろこんで、副将の首を取って懐に入れて、泣きながら京の方へ帰っていきました。その後五六日経って、桂川(京都市西部を流れる川。最後は淀川に合流します)に女房二人が身を投げたと言うことです。一人幼い者の首を懐に入れて、川に沈んだのは、副将の乳母の女房でした。もう一人体を抱いて沈んだのは、介錯([付き添って世話をする者])の女房でした。乳母が覚悟を決めるのは、仕方のないことかもしれません、介錯の女房までも、身を投げたのは悲しいことでした。
(続く)