御曹司寿永三年に上洛して平家を追ひ落とし、一の谷、屋島、壇ノ浦、所々の忠を致し、先駆け身を砕き、遂に平家を攻め亡ぼして、大将軍前の内大臣宗盛父子を生捕り、三十人具足して上洛し、院内の見参に入つて後、去んぬる元暦元年に検非違使五位の尉になり給ふ。大夫判官、宗盛親子具足して、腰越に着き給ひし時、梶原申しけるは、「判官殿こそ大臣殿父子具足して、腰越に着かせ給ひて候ふなれ。君はいかが御計らひ候ふ。判官殿は身に野心を挟みたる御事にて候ふ。その儀如何にと申すに一の谷の合戦に庄の三郎忠家、本三位の中将生捕り奉り、三河殿の御手に渡りて候ふを、判官大きに怒り給ひて、三河殿は大方の事にてこそあれ、義経が手にこそ渡すべきものを、奇怪の者の振舞ひかな。寄せて討たんと候ひしを、景時が計らひに土肥の次郎が手に渡してこそ判官は静まり給ひしか。その上「平家を討ち捕りては、関より西をば義経賜はらん。天に二つの日なし。地に二人の王なしと雖も、この後は二人の将軍やあらんずらん」と仰せ候ひしぞかし。
御曹司(源義経)は寿永三年(1184)に京に上り平家を追い落とし(平家を京から追い落としたのは木曽義仲で、その木曽義仲を京から追い落としたのが源義経ですが)、一の谷(兵庫県神戸市須磨区)、屋島(香川県高松市)、壇ノ浦(山口県下関市)と、所々で忠義を尽くし、先陣を駆けて身を粉にして、遂に平家を攻め滅ぼして、平家の大将軍前内大臣宗盛父子(平清盛の三男宗盛とその嫡男清宗)を生け捕り、三十人を引き連れて上洛し、院(後白河院)内裏(第八十二代後鳥羽天皇)にお目にかかって後、さる元暦元年(1184)に検非違使五位尉になりました。大夫判官(義経)は、宗盛親子を引き連れて、腰越(神奈川県鎌倉市)に着いた時、梶原(景時)が頼朝に申すには、「判官殿(義経)が大臣殿父子を引き連れて、腰越に着いたそうでございます。君(頼朝)はお会いになられますか。判官殿は野心を持っておられるようでございます。どういうことかと申しますと一の谷の合戦で庄三郎忠家(庄忠家)が、本三位中将(平重衡。清盛の五男)を生け捕り、三河殿(源範頼。頼朝の弟蒲殿。重衡が預けられたのは狩野宗茂の許)の手に渡りましたが、判官(義経)はたいそう怒って、三河殿は大したこととは思っておられないかもしれないが、わたし義経に渡すべきではないのか、何と度の過ぎた振る舞いをするものか。寄せて討とうとしたのです、わたし景時(梶原景時)が取り計らって土肥次郎(土肥実平)の手に渡したのでやっとのことで判官の怒りも鎮まったのでございます。その上「平家を討ち捕った以上、関(逢坂の関か?)より西はわたし義経が賜るべきである。天に二つの日はなし。地に二人の主なしと言うが、今より後は二人の将軍がいることになろう」と申しておるのでございます。
(続く)