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「義経記」土佐坊義経討手に上る事(その3)

梶原かぢはらを召して、「安房あは上総かづさの者ども、土佐が供せよ」とぞおほせられける。うけたまはりて、詮なき多勢たせいかな、させる寄せ合わせの楯突きいくさはすまじい、狙ひ寄りて夜討ちにせんと思ひければ、「大勢は詮なくさうらふ。土佐が手勢ばかりにて上り候はん」とまうす。「手勢は如何ほどあるぞ」とのたまへば、「百人ばかりは候ふらん」「さては不足なし」とぞ仰せられける。土佐思ひけるは、大勢を連れ上りなば、もし為果しおふせたらん時、勲功を配分せざらんもわろし。んとすれば安房、上総、はたけおほく田は少なし、徳分とくぶん少なくて不足なりと、酒飲む片口かたくちに案じつつ、御引出物賜はりて、二階堂にかいだうかへり、家の子郎等らうどう呼びてまうしけるは、「鎌倉殿より勲功をこそ賜はつて候へ。急ぎ京上りして所知入しよちいりせん。く下りて用意せよ」とぞ申しける。「それは常々の奉公か。また何によりての勲功ざふらふぞ」と申せば、「判官はうぐわん殿の討ちてまゐらせよとの仰せうけたまはりて候ふ」と言ひければ、物に心得たる者は、「安房あは上総かづさも命ありてこそ取らんずれ。生きて二度ふたたび帰らばこそ」と申す者もあり。あるひは「主の世におはせば、我らもなどか世にならざるらん」と勇む者もあり。されば人の心は様々なり。




頼朝は梶原(梶原景時かげとき)を呼んで、「安房(現千葉県南部)、上総(現千葉県中部)の者たちに、土佐坊(昌俊しやうしゆん)が供をさせよ」と命じました。うけたまはりて、土佐坊はこれを聞いて多勢では成功しまい、多勢で押し寄せての楯突き軍(武力による戦)はよろしくない、隙を窺って夜討ちにしようと思って、「大勢は必要ございません。わたし土佐坊の手勢ばかりで上ります」と申しました。頼朝が「手勢はどれほどだ」と申すと、土佐坊が「百人ほどでございます」と答えたので頼朝も「不足はなかろう」と申しました。土佐坊が思ったことは、大勢を連れて上れば、事を果たした時、勲功を配分しなくてはならず都合が悪い。配分しようとすれば安房、上総は、畑が多く田は少なく、徳分([取り分])が少なくなっては物足りないと、酒を飲みながら片口([一方にだけつぎ口のある長柄の銚子])を眺めながら考えてのことでした、土佐坊は引出物を賜わって、二階堂(現神奈川県鎌倉市二階堂にあった永福ようふく寺)に帰り、家の子([一門の者])郎等([家来])たちを集めて申すには、「鎌倉殿(源頼朝)より勲功を賜わったぞ。急ぎ京に上り所知入り([所領を受けた大名・武士などが、初めてその所領に入ること])しようと思う。急ぎ山を下り京に上る仕度をせよ」とぞ申しました。集まった者たちは「それは常々の奉公によるものですか。また何かによっての勲功でしょうか」と申すと、土佐坊は「判官殿(源義経)を討てとの命を受けたのだ」と言ったので、物事を知る者たちは、「安房、上総も命あって所有できるというものだ。生きて再び帰ることができてこその話よ」と申す者もいました。あるいは「主(頼朝)の世であられるのだから、我らもどうして世の恩恵を受けないことがあろう」と勇む者もいました。土佐坊に付き従う者たちの心は様々でした。


続く


by santalab | 2013-12-27 09:00 | 義経記

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