後に来る奴ばらの佗びけるは、「さもあれ、ただ身の一期の見物は京とこそ言へ、何ぞ日中に京入りはせで、道にて日の暮らし様ぞ。我らども物は持ちたり、道は暗し」と呟きければ、今一人が言ひけるは、「心短き人の言ひ様かな。一日もあらば見んずらん」と言ひければ、今一人の夫が言ひけるは、「和殿ばらも今宵ばかりこそ静かならんずれ。明日は都は件の事にて大乱にてあらんずれ。されば我々までも如何があらんずらんと恐ろしきぞ」も申しければ、源三これを聞きて、これらが後付きて物語をぞしたりけれ。「これも地体相模の国の者にて候ふが、主に付きて在京して候ふが、我が国の人と聞けばいとどなつかしきぞや」なんどと賺されて、「同国の人と聞けば申し候ふぞ。げに鎌倉殿の御弟九郎判官殿を討ち参らせよとの討つ手の使ひを賜はつて上られ候ふ。披露は詮なく候ふ」と申しける。江田これを聞きて、我が宿所へ行くに及ばず、走り帰りて、堀川にてこの由を申す。
後から来る男たちは愚痴をこぼしながら、「何にせよ、ただ一度きりの見物なら京だと言うが、どうして日中に京入りせずに、道中で日が暮れるのを待たなくてはならんのだ。わしらは荷物を運ばねばならんのに、道が暗くてはかなわん」とつぶやきました。もう一人が言うには、「気が短いやつめ。あと一日待てば見物できるではないか」と言うと、もう一人の男が言うには、「お主たちよ今夜ばかりぞ京が静かなのは。明日は都はあの事で大乱になるだろう。我々もどうなることかと思えば恐ろしいことよ」と申したので、源三(江田広基)はこれを聞いて、この男たちの後を付けて話しかけました。「わたしも地体([元来])は相模国の者ですが、主に付いて在京しております。我が国の人と聞いていっそう故郷がなつかしくなりました」などとおだてると、「同国の人と聞けば話さずにはおれんの。まことに鎌倉殿(源頼朝)が弟であられる九郎判官殿(源義経)を討てと討手の使いを命じられて上られるところよ。他言はするなよ」と申しました。江田(広基)はこれを聞きて、己の宿所へ行くこともままならず、走り帰って、堀川(堀川六条館。義経の宿所)にこれを伝えました。
(続く)