弁慶喜三太に先をせられて、安からず思ひて、走り廻るところに、南の御門に伏縄目の鎧着たる者一騎控へたり。弁慶走り寄つて、「誰そ」と問ふ。「土佐が従兄弟、伊北の五郎盛直」とぞ申しける。「これこそ弁慶よ」とて、づと寄る。敵はじとや思ひけん、鞭を当ててぞ落ちける。「穢し、余すまじ」とて追つ掛けて、大鉞を以つて開いてむずと打つ。馬の三頭に猪の目の隠るるほど打ち貫き、えいと言うてぞ引きたりける。馬堪へずしてどうど伏す。主を捕つて押へて、上帯にて搦めて参りける。土佐太郎と一所に繋ぎ置く。
弁慶は喜三太(架空人物)に先を越されて、心穏やかでなく、走り廻っていると、南門に伏縄目([白・浅葱・紺で縄を並べたような斜線文様や波形に染めた革を細く裁って威したもの])の鎧を着た者が一騎止まっていました。弁慶は走り寄って、「誰だ」と訊ねました。「土佐坊の従兄弟で、伊北五郎盛直(伊北盛直)だ」と申しました。「わしが弁慶よ」と申して、真近に寄りました。直は敵わないと思って、鞭を当てて急ぎ逃げて行きました。弁慶は「ずるい奴め、逃がすものか」と言って追いかけ、大鉞で強く打ち付けました。馬の三頭([牛馬の背の尻に近い高くなっている所])に猪の目([柄の飾り金具])が隠れるほど打ち貫いて、えいと言って大鉞を引きました。馬は堪えることもできずにどっと倒れました。弁慶は主(伊北盛直)を捕えて押さえ付け、上帯([鎧・腹巻・胴丸の類の胴先につける帯])に括り付けて戻りました。土佐太郎(土佐坊の長男)と同じ所に繋ぎ置きました。
(続く)