その後、御孫の春宮行啓あり。世を知ろし召さむ時の御心遣ひなど、今少し、細やかに聞こえ知らせ給ふ。宮は先帝の御代はりにも、いかで心の限り仕らんと、あらまし思されつるに、飽かず口惜しうて、いたう塩垂れさせ給ふ。御門の御なからひ、上辺はいとよけれども、忠実やかならぬを、いと心苦しと思さるれど、言に出で給ふべきならねば、ただ大方につけて、世にあるべきことども、またこの頃少し世に恨みあるやうなる人々の、我が御心には哀れと思さるるなど数多あるをぞ、御心のままなる世にもなりなん時は、必ず御用意あるべくなど、聞こえ給ひける。中御門の大納言経継・六条の中納言有忠・右衛門督教定・左衛門佐俊顕など聞こえし人々の事にやありけん。
その後、後宇多院(第九十一代天皇)の孫であられた春宮(第九十四代後二条院の第一皇子、邦良親王。第九十六代後醍醐天皇の皇太子)が行啓([太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太子妃・皇太孫が外出すること])がございました。世を治めに当たっての遣いなど、少し、込み入ったお話をされました。邦良親王は先代(第九十五代花園天皇)を継いで、思いの限り世に仕えようと、かねてより思っておられましたので、あきらめきれず無念で、たいそう涙を流されておいででございました。帝(後醍醐天皇)との仲も、上辺はとてもよいものでございましたが、親密ではありませんでしたので、心苦しく思われておられましたが、言葉になさることもできませんでしたので、ただおおよそ、世にわたしがいるのは、この世に少しでも恨みを持つ者たちを、悲しむためであるなどとあれこれ思われて、心のままの世になった時のために、準備をしておくためだと言われました。中御門大納言経継(中御門経継)・六条中納言有忠(六条有忠)・右衛門督教定・左衛門佐俊顕などが噂を流したのではないでしょうか。
(続く)