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「義経記」継信兄弟御弔の事(その1)

さるほどに判官はうぐわん殿高館たかだちに移らせ給ひて後、佐藤庄司しやうじが後家の許へも折々をりをり御使ひ遣はされ、あはれみ給ふ。人々奇異の思ひをなす。ある時武蔵を召しておほせられけるは、継信つぎのぶ忠信ただのぶ兄弟きやうだいが跡をとぶらはせ給ふべき由仰せられける。「そのついでに四国西国にて討ち死したる者ども、忠の浅深せんじんにはよるべからず。死後なれば名帳みやうちやうに入れて弔へ」と仰せ下さるる。弁慶涙を流し、「もつとかたじけなき御事さうらふ。かみとして斯様かやうに思し召さるる事、まことに延喜えんぎ天暦てんりやくの帝とまうすとも、如何でか斯様には渡らせおはしまし候はん。急ぎ思し召し立ち給へ」と申しければ、さらば貴僧たちをしやうじ、仏事執り行ふべき由おほせ付けらる。




やがて判官殿(源義経)は高館衣川ころもがはたて=今の岩手県西磐井にしいはゐ郡平泉町高館にあった奥州藤原氏の居館に移って後、佐藤庄司(佐藤基治もとはる。佐藤継信つぎのぶ忠信ただのぶの父)の許へ使いを遣り、慰みの言葉を伝えました。人々はめったにないことと思いました。ある時義経は武蔵房弁慶を呼んで、継信忠信の菩提を弔うよう命じました。「彼らの法要の折には四国西国で討ち死にした者たちを、忠義の浅深に関わらず、死後のことであるから名帳([過去帳])に記して弔え」と命じました。弁慶は涙を流し、「それはたいそうありがたいことでございます。上の者がこのように思われることは、延喜天暦の帝(第六十代醍醐天皇と第六十二代村上天皇。治世の君)と申せども、このようなことはなさらなかったでしょう。急ぎ準備されますように」と答えたので、ならばと貴僧たちを呼び集め、仏事を執り行うよう命じました。


続く


by santalab | 2013-12-27 22:01 | 義経記

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