さるほどに判官殿高館に移らせ給ひて後、佐藤庄司が後家の許へも折々御使ひ遣はされ、憐れみ給ふ。人々奇異の思ひをなす。ある時武蔵を召して仰せられけるは、継信忠信兄弟が跡を弔はせ給ふべき由仰せられける。「その次でに四国西国にて討ち死したる者ども、忠の浅深にはよるべからず。死後なれば名帳に入れて弔へ」と仰せ下さるる。弁慶涙を流し、「尤も忝き御事候ふ。上として斯様に思し召さるる事、まことに延喜天暦の帝と申すとも、如何でか斯様には渡らせおはしまし候はん。急ぎ思し召し立ち給へ」と申しければ、さらば貴僧たちを請じ、仏事執り行ふべき由仰せ付けらる。
やがて判官殿(源義経)は高館に移って後、佐藤庄司(佐藤基治もとはる。佐藤継信つぎのぶ・忠信ただのぶの父)の許へ使いを遣り、慰みの言葉を伝えました。人々はめったにないことと思いました。ある時義経は武蔵房弁慶を呼んで、継信忠信の菩提を弔うよう命じました。「彼らの法要の折には四国西国で討ち死にした者たちを、忠義の浅深に関わらず、死後のことであるから名帳([過去帳])に記して弔え」と命じました。弁慶は涙を流し、「それはたいそうありがたいことでございます。上の者がこのように思われることは、延喜天暦の帝(第六十代醍醐天皇と第六十二代村上天皇。治世の君)と申せども、このようなことはなさらなかったでしょう。急ぎ準備されますように」と答えたので、ならばと貴僧たちを呼び集め、仏事を執り行うよう命じました。
(続く)