人気ブログランキング | 話題のタグを見る

Santa Lab's Blog


「平家物語」腰越(その4)

鎌倉殿は、軍兵ぐんびやう七部屋へにゑ置き、我が身はその内におはしながら、「九郎はすすどをのこなれば、この畳の下よりも這ひ出でんずる者なり。されども頼朝は、らるまじ」とぞのたまひける。金洗沢かねあらひざはに堰き据ゑて、大臣殿父子受け取り奉て、それより判官をば腰越へ追ひかへさる。判官、「こはされば何事ぞや。去年こぞの春、木曽義仲を追討せしよりこの方、今年の春、平家をことごとく滅ぼし果てて、内侍所ないしどころしるしの御箱、事故ことゆゑなう都へ返し入れ奉り、あまつさへ大将軍たいしやうぐん大臣殿父子生捕りにして、これまで下りたらんにはたとひいかなる不思議ありとも、一度はなどか対面なからん。およそ九国の惣追捕使そうづゐぶしにもせられ、山陰せんおん山陽せんやう、南海だう、いづれなりともあづけられ、一方いつぱうの御固めにもなされんずるかとこそ思ひたれば、さはなくして、わづかに伊予の国ばかり知行ちぎやうすべき由のたまひて、鎌倉ぢうへだに入れられずして、腰越へ追ひ上せられしことはいかに。およそ日本につぽん国中をしづむることは、義仲義経が仕業にあらずや。たとへば同じ父が子にて、先に生まるるを兄とし、後に生まるるをおとととするばかりなり。天下てんがを知らんに、たれかは知らざらん。しやするところを知らず」とつぶやかれけれども甲斐かひぞなき。判官泣く泣く一通のじやうを書いて、広基ひろもともとへ遣はさる。




鎌倉殿(源頼朝)は、軍兵を七部屋へに据え置いて、自身はその中にいて、「九郎(源義経)はすばしっこい男だから、この畳の下からも這い出るような者だ。けれどもわたしには、敵わないだろう」と言いました。頼朝は義経を金洗沢([今の神奈川県鎌倉市])に留め置いて、大臣殿父子(平宗盛むねもり、清盛の三男とその嫡男清宗きよむね)を受け取って、そこから判官(義経)を腰越([ここも今の神奈川県鎌倉市])に追い返しました。義経は、「これはいったいどういうことだ。木曽義仲を追討してからというもの、今年の春には、平家をことごとく滅ぼして、内侍所([三種の神器の一つ、八咫鏡やたのかがみ)])、標の箱(三種の神器の一つ、八坂瓊勾玉やさかにのまがたまを納めた箱らしい)を失うことなく都に持ち帰り、その上に大将軍である宗盛殿父子を生捕りにして、ここまで下ったのですからたとえどのような不思議があろうとも、どうして一度も対面されないのか。九国([九州])の惣追捕使([守護])にもなって、山陰道、山陽道、南海道のいずれかに領地を与えられ、一方の警固を任されるのではないかと思っていたが、そうではなく、わずか伊予国(今の愛媛県)ばかりを知行([国務を執り行うこと])するように言われて、鎌倉にも入ることができずに、腰越へ追い出されるのはどういうことだ。この日本国中を鎮めたのは、義仲とわたしのおかげではないか。同じ父(頼朝と義経の父は、平治の乱で討たれた義朝よしともです)の子であり、先に生まれた者が兄(頼朝)で、後に生まれた者が弟(義経)というだけの違いしかないのに。天下を治める者は、何も頼朝だけにできるわけではないぞ。いったいこれを誰に言えばよいのか」とつぶやきましたがどうしようもないことでした。義経は泣く泣く一通の文を書いて、広基(大江広基)の許に遣わしました。


続く


by santalab | 2013-12-28 07:55 | 平家物語

<< 「承久記」京都方々手分の事(その2)      「義経記」継信兄弟御弔の事(その1) >>

Santa Lab's Blog
by santalab
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧