鎌倉殿は、軍兵七部屋へに据ゑ置き、我が身はその内におはしながら、「九郎は鋭き男なれば、この畳の下よりも這ひ出でんずる者なり。されども頼朝は、競らるまじ」とぞのたまひける。金洗沢に堰き据ゑて、大臣殿父子受け取り奉て、それより判官をば腰越へ追ひ返さる。判官、「こはされば何事ぞや。去年の春、木曽義仲を追討せしよりこの方、今年の春、平家をことごとく滅ぼし果てて、内侍所、標の御箱、事故なう都へ返し入れ奉り、あまつさへ大将軍大臣殿父子生捕りにして、これまで下りたらんにはたとひいかなる不思議ありとも、一度はなどか対面なからん。およそ九国の惣追捕使にも附せられ、山陰、山陽、南海道、いづれなりとも預けられ、一方の御固めにもなされんずるかとこそ思ひたれば、さはなくして、わづかに伊予の国ばかり知行すべき由のたまひて、鎌倉中へだに入れられずして、腰越へ追ひ上せられしことはいかに。およそ日本国中を鎮むることは、義仲義経が仕業にあらずや。たとへば同じ父が子にて、先に生まるるを兄とし、後に生まるるを弟とするばかりなり。天下を知らんに、誰かは知らざらん。謝するところを知らず」とつぶやかれけれども甲斐ぞなき。判官泣く泣く一通の状を書いて、広基の許へ遣はさる。
鎌倉殿(源頼朝)は、軍兵を七部屋へに据え置いて、自身はその中にいて、「九郎(源義経)はすばしっこい男だから、この畳の下からも這い出るような者だ。けれどもわたしには、敵わないだろう」と言いました。頼朝は義経を金洗沢([今の神奈川県鎌倉市])に留め置いて、大臣殿父子(平宗盛、清盛の三男とその嫡男清宗)を受け取って、そこから判官(義経)を腰越([ここも今の神奈川県鎌倉市])に追い返しました。義経は、「これはいったいどういうことだ。木曽義仲を追討してからというもの、今年の春には、平家をことごとく滅ぼして、内侍所([三種の神器の一つ、八咫鏡)])、標の箱(三種の神器の一つ、八坂瓊勾玉を納めた箱らしい)を失うことなく都に持ち帰り、その上に大将軍である宗盛殿父子を生捕りにして、ここまで下ったのですからたとえどのような不思議があろうとも、どうして一度も対面されないのか。九国([九州])の惣追捕使([守護])にもなって、山陰道、山陽道、南海道のいずれかに領地を与えられ、一方の警固を任されるのではないかと思っていたが、そうではなく、わずか伊予国(今の愛媛県)ばかりを知行([国務を執り行うこと])するように言われて、鎌倉にも入ることができずに、腰越へ追い出されるのはどういうことだ。この日本国中を鎮めたのは、義仲とわたしのおかげではないか。同じ父(頼朝と義経の父は、平治の乱で討たれた義朝です)の子であり、先に生まれた者が兄(頼朝)で、後に生まれた者が弟(義経)というだけの違いしかないのに。天下を治める者は、何も頼朝だけにできるわけではないぞ。いったいこれを誰に言えばよいのか」とつぶやきましたがどうしようもないことでした。義経は泣く泣く一通の文を書いて、広基(大江広基)の許に遣わしました。
(続く)