さてその夜は泊まり給へるも知ろし召さで、夜うち深けて、少し驚かせ給ひて、「春宮はいつ帰り給ひぬるぞ」とのたまふに、うち声作りて、近く参り給へれば、「いまだおはしましけるな」とて、いとらうたしと思されたる御気色哀れなり。大方の気色、院の内の掻い湿りたる有様など、万思し廻らすに、いと悲しきこと多かれば、宮、うち泣き給ひぬ。心細ういみじとのみ思さるるに、正中元年六月二十五日、遂に隠れさせ給ひぬ。御年五十八にぞならせ給ひける。後宇多院と申すなるべし。御門また御服奉る。明け暮れ懇ろに孝じ奉り給ふ様、いと忝し。
さてその夜邦良親王(第九十四代後二条院の第一皇子で第九十六代後醍醐天皇の皇太子)が大覚寺(現京都市右京区にある寺)に泊まられたのを知らないで、夜が更けてから、後宇多院(第九十一代天皇)は少し驚かれて、「春宮(邦良親王)はいつ帰ったのじゃ」と申されたので、邦良親王は咳払いをして、近くに参ると、「まだおったのか」と申して、とてもかわいく思われるのが涙を誘うのでございました。皆の悲しそうな表情や、院の内の火が消えたような有様など、思い浮かべると、とても悲しいことばかり多くて、邦良親王は、涙を流さずにはいられませんでした。心細くつらいことばかりと思われておられましたが、正中元年(1324)六月二十五日、遂にお隠れになられました。御年五十八でございました。後宇多院と申すお方でございます。帝(後醍醐天皇)はまた墨染の衣に着替えられました。明け暮れ熱心に孝養なされるお姿は、とてもありがたいものでございました。
(続く)