片岡船枻の上に片膝突いて、差し詰め引き詰め、散々にこそ射たりけれ。船腹に櫟の木割りを十四五射立てて置きたりければ、水一端入る。周章狼狽きて、踏み返し、目の前にて杉舟三艘まで失せにけり。豊島の冠者亡せにければ、大物の浦に船を漕ぎ寄せて、空しき体を舁きて、泣く泣く宿所へぞ帰りける。武蔵坊は常陸坊を呼びて申しけるは、「安からぬ事かな。軍すべかりつるものを。かくて日を暮さん事は宝の山に入りて、手を空しくしたるにてこそあれ」と後悔するところに、小溝の太郎は大物にありと聞きて、百騎の勢にて大物の浦に馳せ下りて、陸に上げたりける船を五艘押し下ろし、百騎を五手に分けて、我先にと押し出だす。これを見て、弁慶は黒革威、海尊は黒糸威の鎧着たり。常陸坊は本より究竟の楫取なりければ、小舟に取り乗り、武蔵坊はわざと弓矢をば持たざりけり。四尺二寸ありける柄装束の太刀帯いて、岩透と言ふ刀を差し、猪の目彫りたる鉞、薙鎌、熊手舟にからりひしりと取り入れて、身を放さず持ちける物は、櫟の木の棒の一丈二尺ありけるに、鉄伏せて上に蛭巻したるに、石突きしたるを脇に挟みて、小舟の舳に飛び乗る。
片岡(片岡常春)は船枻([和船の両側の舷に渡した板。櫓を漕いだり棹をさしたりするところ])に片膝突いて、ひっきりなしに、散々に矢を射ました。敵の船腹に櫟の木割りの矢を十四五本射立てたので、舟にあっという間に水が入り込みました。敵はあわて騒いで、舟を踏み返かへし、目の前で杉舟三艘が沈みました。豊島冠者が亡くなったので、大物浦に舟を漕ぎ寄せて、むなしい体を担いで、泣く泣く宿所へ帰っていきました。武蔵坊(弁慶)は常陸坊(海尊)を呼んで申すには、「穏やかならぬことだ。戦すべきところぞ。こうして日を暮すことは宝の山に入って、何も手にできないようなものではないか」と後悔していましたが、小溝太郎は大物(現兵庫県尼崎市)に義経がいると聞いて、百騎の勢で大物浦に馳せ下り、陸に上げた船を五艘押し下ろして、百騎を五手に分けて、我先にと押し出しました。これを見て、弁慶は黒革威、海尊は黒糸威の鎧を身に付けました。常陸坊は元々究竟([熟練])の楫取でしたので、小舟に取り乗り、武蔵坊は弓矢を持たずに乗り込みました。四尺二寸(約126cm)ある柄に飾りのある太刀を帯いて、岩透と言う刀を腰に差し、猪の目([柄に彫ったハート形の飾り])を彫った鉞、薙鎌([長柄を付けた鎌])、熊手を舟にいくつも乗せて、身から放さず持つ物は、イチイの木の棒で一丈二尺(約3m60cm)あるものに、鉄を延べて上に蛭巻([太刀の柄・鞘や槍・薙刀などの柄に 、金属の細長い薄板を間をあけた螺旋状に巻いてあるもの])したものに、石突き([矛・ 薙刀・槍などの柄の、地に突き立てる部分を包んでいる金具])を付けたものを脇に挟んで、小舟の舳([船先])に飛び乗りました。
(続く)