判官これを見給ひて、「片岡あれ制せよ。さのみ罪な作りそ」と仰せられければ、「御諚にて候ふ。さのみさのみ罪な作られそ」と言ひければ、弁慶これを聞きて、「それを申すぞよ、末も通らぬ青道心、御諚を耳にな入れそ。八方を攻めよ」とて散々に攻む。杉船二艘は失はせて、三艘は助かり、大物の浦へぞ逃げ上がりける。その日判官軍に勝ちすまし給ひけり。御舟の中にも手負ふ者十六人、死ぬるは八人ぞありける。死したる者をば、敵に首を取られじと、大物の沖にぞ沈めける。その日は御舟にて日を暮らし給ふ。夜に入りければ、人々皆陸に上げ奉り給ひて、心ざしは切なけれども、かくては叶ふまじとて、皆方々へぞ送られける。二位の大納言の姫君は、駿河の次郎承つて送り奉る。久我の大臣殿の姫君をば喜三太が送り奉る。その外残りの人々は、皆縁々に付けてぞ送り給ひける。
判官(源義経)はこれを見て、「片岡(片岡常春)よ弁慶を止めよ。つまらない罪を作らせるな」と命じたので、「御諚([君主の命令])だ。そのようなつまらない罪を作るなと」と言うと、弁慶はこれを聞いて、「そんなことを申すか、それこそ棒にもかからぬ青道心([よく考えもせずに起こした信仰心])と申すものよ、御諚をわしの耳に入れるでない。八方を攻めよ」と言って散々に攻めました。杉船二艘を失わせて、三艘は助かり、大物浦(現兵庫県尼崎市)へぞ逃げ上ぼりました。その日判官(源義経)は戦に勝ちました。味方の舟の中にも疵を負う者十六人、死ぬ者は八人いました。死んだ者は、敵に首を取られないように、大物の沖に沈めました。その日は舟で日を暮らしました。夜になると、義経は者たちを皆陸に上げて、切ないことでしたが、こうなっては仕方ないと、女房たちを方々に送らせました。二位大納言(平時忠)の姫君(蕨姫)は、駿河次郎が承って送りました。久我大臣殿(源通親)の姫君は喜三太が送りました。その外残りの者たちは、皆それぞれ縁々も者に付けて送りました。
(続く)