檻井の内にある時は、すなはち尾を振つて食を求むとて、剛き虎の深山にある時は、百の獣怖ぢ恐ると言へども、捕つて檻の中に籠められて後は、尾を振つて人に向かふらんやうに、いかに剛き大将軍も、運尽きかくなつて後は、心変はる習ひなれば、この大臣殿も、さこそおはすにや」と、申す人々もありけるとかや。判官やうやうに陳じ申されけれども、景時が讒言の上は、鎌倉殿さらに用ひ給はず。大臣殿父子具し奉て、急ぎ上り給ふべき由のたまふ間、六月九日の日、また大臣殿父子受け取り奉て、都へ帰り上られけり。大臣殿は、かやうに一日も日数の延ぶることを、うれしきことに思しけるこそいとほしけれ。道すがらも、「ここにてやここにてや」と思はれけれども、国々宿々うち過ぎうち過ぎ通りぬ。
檻の中にいる時は、尾を振って食べ物を探すと言って、強い虎が深山にいる時は、すべての獣は怖じ恐れると言うが、虎を捕まえて檻の中に閉じ込めると、尾を振って人に対するように、どんなに強い大将軍でも、運が尽きてしまった後は、心も変わるのが習いであれば、この大臣殿(平宗盛。清盛の三男)も、同じであろう」と、言う者もあったとか。判官(源義経。頼朝の弟)は何度も陳情しましたが、景時(梶原景時)が悪意をもってこれをを伝えたので、鎌倉殿(源頼朝)は聞く耳を持ちませんでした。清盛が大臣殿父子(平宗盛と嫡男清宗)を連れて、急いで都に上ることを頼朝に頼んだので、六月九日に、また宗盛父子を受け取って、都に帰って行きました。宗盛が、こうして一日命の日数が延びたことを、うれしいと思うことこそ嘆かわしいことでした。道すがらも、「ここで討たれるのではないか」と思っていましたが、国々宿々を次々過ぎて通って行きました。
(続く)