今またかかる御目に遭ひ給ふ御事も、前世の宿業なれば、世をも人をも神をも仏をも、恨み思し召すべからず。大梵王宮の深禅定の楽しみ、思へば程なし。いはんや電光朝露の下界の命においてをや。たう利天の億千歳、ただ夢の如し。三十九年を過ぎさせ給ひけんも、わづかに一時の間なり。誰か舐めたりし不老不死の薬、誰か保ちたりけん東父西母が命、秦の始皇の奢りを極め給ひしも、終には驪山の塚に埋もれ、漢の武帝の命を惜しみ給ひけんも、むなしく茂陵の苔に朽ちにき。生あるものは必ず滅す。釈尊いまだ栴檀の煙免れ給はず。楽しみ尽きて悲しみ来たる。
今またこのような憂き目に遭うのも、前世の宿業([現世で報いとしてこうむる、前世に行った善悪の行為])のためですから、世も人も神も仏も、恨みに思ってはいけません。大梵王宮([大梵天王の住む宮殿]。[大梵天王]=[梵天]=[最高位の神らしい。インドの神])の深禅定([思いを静め、心を明らかにして真正の理を悟るための修行])に比べれば、わずかな違いがあるだけのことです。ましてや電光朝露([はかなく消えやすいことのたとえ])の下界の命のことです。たう利天(須弥山の頂にあるという天界。帝釈天が住み、寿命は人間界の10万年らしい)の億千歳の寿命もまた、夢のようにはかないものです。あなたが三十九年永らえたことも、わずか一瞬のことなのです。いったい誰が不老不死の薬を舐めたことがありましょう、誰が東父([東王父]=[中国の伝説上の神仙])西母([西王母]=[中国の古代神話上の女神])の命を保ったでしょうか、秦始皇帝(万里の長城を造った人。始皇帝の墓兵馬俑は世界遺産)は栄華を極めましたが、終には驪山(西安の東に位置する山)の塚に埋もれ、漢武帝は命を惜しみましたが、茂陵(漢武帝の墓陵)の苔と朽ちました。命あるものはすべて滅します。釈尊(釈迦)でさえ死から逃れることはできませんでした。楽しみが尽きると悲しみが来るのです。
(続く)