次の御門、孝霊天皇と申しき。孝安天皇第一の御子。御母、皇太后姉押姫なり。考安天皇の御世、七十六年庚申正月に東宮に立ち給ふ。御年二十六。父御門亡せ給ひて次の年辛未、正月二年ぞ位に即き給ひし。御年五十三。位を保ち給ふ事、七十六年なり。この御世とぞ思え侍る、天竺の祗園精舎の焼けて後、旃育迦王の造り給ふと承り侍りしは。かの須達長者造りて仏に奉りて二百年と申ししに焼けにけるを、祗陀太子、またもとのやうに造り給へりける。その後、五百年を経て焼けたるを、いま旃育迦王の造り給ふとぞ聞こえし。
次の帝は、孝霊天皇(第七代天皇)と申されました。孝安天皇(第六代天皇)の第一皇子でした。母は、皇太后孝安天皇の姉(姪らしい)押姫でした。考安天皇の御宇、考安天皇七十六年庚申(考安天皇七十六年は甲辰)正月に東宮に立たれました。御年二十六でした。父である孝安天皇がお隠れになられた次の年辛未、正月二年(正月二日?)に帝位に即かれました。五十三歳でした。位を保つこと、七十六年間でした。孝霊天皇の御宇のことでしたか、天竺の祗園精舎が焼けた後、旃育迦王(セイカ王?古代インド国王の名らしい)が再建したと聞いておりますのは。かの須達長者(スダッタ)が祇園精舎を造り仏(釈迦)に寄進してから二百年後に焼失しましたが、祗陀太子(ジェータ。中インドの舎衛国)が、また元通り造り直しました(ジェータは釈迦と同時代の人で、祇園精舎はもともとジェータが所有し、スダッタとちもに寄進したという)。その後、五百年を経てまた焼失しましたが、旃育迦王が再建したと聞いています。
(続く)