七年と申ししにぞ、相撲は始まり侍りし。十五年と申ししに、丹波国に住み給ひし皇子の御娘五人おはしき。御門これを皆参らすべき由、仰せ言ありしかば、やがて奉り給へりしに、各々ときめかせ給ひしに、中の弟のおはせし、容貌いと醜くなんおはしければ、本の国へ返し遣はししほどに、桂川渡りて心憂しとや思しけん、車より落ちてやがてはかなくなり給ひき。さてそれよりかしこをおちくにと申ししを、この頃は、乙訓とぞ人は申すなる。その年の八月に、星の雨の如くにて降りしをこそ見侍りしか。浅ましかりし事に侍りし。
垂仁天皇七年(B.C.23)に、相撲が行われるようになりました。垂仁天皇十五年(B.C.15)に丹波国に住んでいた皇子(磐衝別命)には娘が五人いました。垂仁天皇(第十一代天皇)は娘たちを皆入内させるよう、命じられたので、すぐに参らせました、それぞれ美しい娘でしたが、真ん中の娘は、容姿がとても醜かったので、丹波国へ帰すことにしました、娘は桂川を渡る時悲しくなったのか、車より身を投げて亡くなってしまいました。それからその地をおちくにと呼ぶようになりましたが、今では、乙訓(現京都府乙訓郡および長岡京市と向日市、京都市西京区および南区、伏見区の一部)と人は呼んでいます。その年の八月に、星がまるで雨のように降りました。不思議なことでした。
(続く)