五十一年と申ししに内宴行ひ給ひしに、成務天皇のいまだ皇子と申ししに、武内宿禰と、その座に参り給はざりしかば、御門、その故を尋ねさせ給ひしに、申し給はく、「人々皆御遊びの間、心を緩ぶべき折なり。その時、もし隙を窺ふ心あるものも侍らんにと思ひて、門を固めてなん侍る」と申し給ひしかば、御門いよいよ並びなく寵し給ひき。武内は孝元天皇の御孫なり。この後代々の御門の御後見として、世に久しくおはしき。今に八幡の御傍に近く斎はれ給へるはこの人にいます。五十八年二月に近江の穴穂宮に遷りにき。熊野の新宮はこの御時にぞ始まり給へりし。
景行天皇五十一年(121)に内宴([内部の者だけで催す宴])がありました、成務天皇(第十三代天皇)はまだ皇子でしたが、武内宿禰(大和朝廷の初期に活躍したという伝説上の人物)ともに、その座に参りませんでした、景行天皇が、その訳を訊ねると、答えて申すには、「人と申すものはお遊びの間は、気が緩むものでございます。その時、もしや隙を窺う者やあるかも知れないと思い、門を固めて警護しておりました」と申したので、景行天皇はますます並びなく皇子を大切にされました。武内(宿禰)は孝元天皇(第八代天皇)の孫でした(曽孫らしい)。この後代々の帝の後ろ見として、世に永くおられました。今八幡(現京都府八幡市にある石清水八幡宮)の傍近く(高良社)に祀られているのがこの人なのです。景行天皇五十八年(128)二月に近江穴穂宮(志賀高穴穂宮。現滋賀県大津市)に遷都しました。熊野新宮(現和歌山県新宮市にある熊野速玉大社)は、景行天皇の御時に創建されました(熊野速玉大社の創建年代は不詳だが、伝承によれば景行天皇五十八年という)。
(続く)