すなはち角髪に結ひ給ひて、臣下にのたまはく、「軍を起こす事は国の大事なり。今このことを思ひ立つ。ひとへに汝たちに任す。我女の身にして男の姿を借りて、軍を起こす。上には神の恵みを蒙り、下には汝たちの助けを頼む」とて、松浦と云ふ河におはして祈りてのたまはく、「もし西の国を得べきならば、釣りにかならず魚を得ん」とて釣り給ひしに、鮎を釣り上げ給ひにき。その後諸国に詔して船を召し、兵を集めて海を渡り給はんとて、先づ人を出して、国のありなしを見せさせ給ふに、見えぬ由を申す。また人を遣はして見せしめ給ふに、日数多く積もりて帰り参りて、「戌亥の方に山あり。雲かかりてかすかに見え侍る」と申ししかば、皇后やがてその国に向かひ給はんとて、石を取りて御腰にさし挟み給ひて、「事終りて帰らん日、この国にして産み奉らん」と祈り誓ひ給ひにき。このほど八幡を孕み奉らせおはしましたりしなり。仲哀天皇亡せさせおはします事は二月なり。このことは十月なれば、ただならずおはしますとも、御門に知らせ給はぬほどにもや侍りけん。
神功皇后はすぐさま角髪([上代の成人男子の髪の結い方])に結い、臣下に申すには、「軍を起こすことは国の一大事です。わたしは決心しました。お前たちに任せます。わたしは女ですが男の姿となって、軍を起こすのです。上は神の恵みを蒙り、下にはお前たちの助けを借りましょう」と申して、松浦という川(現佐賀県北西部を流れる川)に下りて祈って申すには、「もし西の国を得ることができるならば、魚を釣り上げさせてください」と申して釣りをすると、鮎を釣り上げました。その後諸国に命じて船を造らせ、兵を集めて海を渡ろうと、まず人を遣って、国のありなしを探させると、国はありませんと知らせました。また人を遣わして探させると、日数多く積もってから戻ってきて、「戌亥([北西])の方に山があります。雲がかかっておりましたがかすかに見えました」と知らせたので、神功皇后はすぐにその国に向かおうと、石を取り腰にさし挟んで(腹に月延石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたという)、「軍が終って日本に帰って、この国でこの子を産みます」と祈り誓いました。この時八幡(第十五代応神天皇)を身籠っていました。仲哀天皇(第十四代天皇)がお隠れになられたのは二月のことでした。この時十月でしたので、身籠ったことを、仲哀天皇に知らせることはなかったのかも知れません。
(続く)