次の御門、応神天皇と申しき。今の八幡の宮はこの御事なり。仲哀天皇第四の御子。御母、神功皇后におはします。神功皇后の御世三年癸未に東宮に立ち給ふ。御年四歳なり。庚寅の年正月丁亥の日、位に即き給ふ。御年七十一。世を知ろし召す事四十一年なり。八年と申す四月に、武内の大臣を筑紫へ遣はして、事を定め政たせ奉らせ給ひしに、この武内の大臣の御弟にておはせし人の、御門に申し給はく、「武内の大臣常に王位を心にかけ侍り。筑紫にて新羅、高麗、百済この三つの国を語らひて、朝廷を傾け奉らんとす」と、なきことを讒し申ししかば、御門、人を遣はして、この武内を討たしめ給ふに、武内嘆きて、「我君の御ため二心なし。今、罪なくして身を失ひてんとす。心憂きことなり」とのたまふ。
次の帝は、応神天皇(第十五代天皇)と申されました。今の八幡宮は応神天皇をお祀りしています(八幡宮の祭神は、誉田別命 =応神天皇、比咩大神 、息長帯姫命=神功皇后)。仲哀天皇(第十四代天皇)の第四皇子でした。母は、神功皇后(仲哀天皇皇后)でした。神功皇后の時代神功皇后三年(203)癸未に東宮に立たれました。御年四歳の時でした。庚寅の年(270)正月丁亥の日に、帝位に即かれました。御年七十一でした。世を治められること四十一年でした。応神天皇八年(277)四月に、武内大臣(竹内宿禰。大和朝廷の初期に活躍したという伝説上の人物。第八代孝元天皇の曽孫らしい)を筑紫へ遣わして、政治を行わせました、武内大臣の弟(甘美内宿禰)が、応神天皇に申し上げるには、「武内大臣(宿禰)常々王位に上る野心を持っております。筑紫で新羅、高麗、百済の三国と共謀して、朝廷を転覆しようと企てております」と、事実無根の讒言を申し上げたので、応神天皇は、人を遣わせて、武内(宿禰)を討とうとしました、武内(宿禰)は悲しんで、「わたしには君(応神天皇)に背く心はない。ところが今、無罪でありながら命を失われようとしている。悲しいことだ」と申しました。
(続く)