次の御門、允恭天皇と申しき。仁徳天皇第四の御子。御母、皇后磐之媛なり。壬子の年、十二月に位に即き給ふ。御年三十九。世を知り給ふ事、四十二年なり。兄の御門亡せ給ひて後、大臣を始めて、位にはこの君こそ即き給ふべけれとて、璽の箱を奉りしかども受け取り給はずして、「我が身久しく病ひに沈めり。朝廷の位は愚かなる身にて保つべきことならず」とのたまひしを、大臣以下なほ勧め奉りて、「帝王の御位の、空しくて久しかるべきにあらず」と、度々申ししかども、なほ聞こし召さずして、正月に兄御門亡せおはしまして、明くる年の十二月まで御門おはしまさでありしを、御乳母にておはしましし人の、水を取りて御うがひを奉り給ひしついでに、「皇子はなど位に即き給はで年月をば過させ給ふにか侍る。大臣より始めて、世の中の嘆きに侍るめり。人々の申すに従ひて位に即かせ給へかし」と申し給ふを、なほ聞こし召さで、うち後ろ向き給ひて、物ものたまはざりしかば、この御うがひを持ちて、さりとも、とかく仰せらるることもやと待ち居侍りしほどに、十二月の事にていと寒かりしに、久しくなりにしかば、御うがひも氷りて持ち給へる手も冷え通りて、すでに死に入り給へりしを、皇子見驚き給ひて、抱き助けて、「位を継ぐことは極りなき大事なれば、今まで受け取らぬことにて侍れども、かくのたまひ合ひたることなれば、あながちに逃れ侍るべきことにあらず」。
次の帝は、允恭天皇(第十九代天皇)と申されました。仁徳天皇(第十六代天皇)の第四皇子でした。母は、仁徳天皇皇后皇后磐之媛命でした。壬子の年(412)、十二月に帝位に即かれました。御年三十九でした。世を治められること、四十二年でした。兄の帝(第十八代反正天皇)がお隠れになられた後、大臣をはじめ、帝位にはこの君が即かれるべきと、璽の箱([三種の神器の一つである神璽=八尺瓊勾玉])をお持ちしましたが受け取らず、「わたしは長く病いの身です。朝廷の位は病気の者には務まりません」と申しました、大臣以下はなお勧めて、「帝王の位に、長い間誰もおられないのはよろしくございません」と、度々申しましたが、なおも了承しませんでした、正月に兄帝(反正天皇)がお隠れになられて、明くる年の十二月まで帝は不在でしたが、乳母が、水をお持ちしてうがいをされた折に、「皇子はどうして位にお即きにならず年月を過ごされておいでですか。大臣をはじめ、世の中は悲しんでおります。人々の申されるままに位に即かれなさいませ」と申しました、それでも了承せずに、後ろを向いて、何も申されませんでした、乳母はうがいを持ったまま、きっと、何か申されると待っていましたが、十二月のことですればとても寒くて、長く待っていたので、うがいも凍り持つ手もすっかり冷えて、死にそうに見えたので、皇子はこれを見て驚き、抱き助けて、「位を継ぐことはとりわけ大事であり、今まで受け取らなかったが、これほどに申されるのであれば、逃れることはできまい」と申しました。
(続く)