次の御門、飯豊天皇と申しき。これは女帝におはします。履中天皇の御子に押磐の皇子と申して、黒媛の御腹に皇子おはしき。その御娘なり。御母、はえ媛なり。甲子の年二月に位に即き給ふ。御年四十五。この御門の御弟二人、互に位を譲りて継ぎ給はざりしほどに、御妹を位に即け奉り給へりしなり。さて、ほどなくその年の内十一月に亡せ給ひにしかば、この御門をば系図などにも入れ奉らぬとかやぞ承る。されども日本紀には入れ奉りて侍るなれば、次第に申し侍るなり。
次の帝は、飯豊天皇と申されました。飯豊天皇は女帝でした。履中天皇(第十七代天皇)の皇子に市辺押磐皇子と申す、黒媛の子である皇子がいました。その娘でした。母は、はえ媛でした。甲子の年(484)二月に帝位に即かれました。御年四十五でした。飯豊天皇の御弟二人が、互いに位を譲り継がなかったので、妹を帝位に即けたのです。それから、ほどなくその年の十一月にお隠れになられたので、飯豊天皇は系図に入っておられないと聞いています。されども日本書紀には入っておりますれば、これに習い申しました。
(続く)