小笠原の次郎進み出でて申しけるは、「身を惜しむには候はず。関山にて馬ども多く馳せ殺し、また大炊渡にて手の極の合戦仕りて、馬も人も攻め伏せて候ふ。事にも逢はぬ人どもを置かれながら、長清を向けられ候ふ事、別の御計ひとも思え候はず」と申されければ、武蔵の守殿のたまひけるは、「傷み申さるるところ、もつともその謂れ候へども、心安く思ひ奉りてこそ大事の手には向け奉れ」とのたまひければ、力及ばず、「重ねて辞し申すに及ばず」とて向かはれけり。その勢一万五千余騎なり。
小笠原次郎(小笠原長清。甲斐源氏)が進み出でて申すには、「命を惜しんで申すのではございません。関山(関山関所。現長野県木曽郡大桑村)で多くの馬を死なせて、また大炊渡(現岐阜県可児市)では最前で合戦しましたので、馬も人も攻め疲れております。いまだ戦をしておられぬ人がいながら、わたし長清を向けられることは、納得が参りません」と申せば、武蔵守殿(北条泰時)が申すには、「疲れておるところ、申すことは理解できるが、安心されて大事の手には向かわれよ」と申したので、仕方なく、「重ねて辞退申し上げることはございません」と申して大手に向かいました。その勢一万五千余騎でした。
(続く)