以前『いつか街で逢ったなら』なんて「愚痴」をこぼしていたこともありましたっけ。そりゃ「逢いたいか逢いたくないか?」の二つに一つならば「逢いたい」って思うのは仕方ないこと。それでどうなるものではありませんけどね。
ならば「逢って」のその次を考える「人」に対しては?結論から言うと「逢いたくない」んです、拓郎が「心は揺れても」と歌いましたが「心が揺れるから」逢いたいんじゃなくて、「心が揺れても」逢いたくはない、「心が揺れる」のは当然としても、逢いたくない理由は「揺れるから」ではありません。「揺れる」のは自明でそれでも。
「病んでるんですよ」。医者は「原因」ばかりに興味があるようで、だから行きません。そして「世の中」も病んでるアタイから見て「病んでる」から信じません。信じるものは、きっと「あなた」だけ。だから逢いません。それだけのこと。
こういうのを「壊れてる」って言うのでしょうか。「サヨナラ」ひとつ言わないまま離れてしまうことを「情けなし」と言うのでしょうか。けれど「玉砕」すればかえって「英雄?」。悩みの中に「答え」なく「世の中」に抹殺される者こそ、どこかで誉められてしかるべし。
戒名さえ付けてもらえないならば自ら申して。「無説宣薫直信士」なんてどうかしら?「宣薫」は入れて欲しいかな?アタイ曹洞宗(道元さん)なんだけど法然さん(浄土宗)結構好きで、親鸞さん(浄土真宗)も捨て難く。さておきCanonではありませんが一番は「観音菩薩」好きで、ならば「親鸞」さん?曹洞宗も祀る「観音菩薩」ならば「宗派」はどうでもよいかな。
「きっと、もう駄目です」