八日の暁、秀康・胤義以下御所へ参りて、「去ぬる六日摩免戸を始めて皆落ち失せ候ふ。また杭瀬河よりほか、はかばかしき軍したる処も候はず」と申しければ、君も臣もあわて騒がせ給ひき。ただ今都に敵打ち入れたる様にひしめきけり。
六月八日の暁、秀康(藤原秀康)・胤義(三浦胤義)以下の者たちが御所に参り、「去る六日摩免戸(現岐阜県各務原市前渡)をはじめとして皆軍に敗れました。また杭瀬河(現岐阜県大垣市あたり)を除き、軍に勝ったところはございません」と申したので、君(後鳥羽院)も臣下もあわて騒ぎました。まるで今敵が打ち入ったような騒ぎとなりました。
(続く)