弁慶申しけるは、「事も事にこそより候はんずれ、山伏の頭巾篠県に笈掛けて、女房を先に立てたらんずるは、さしも尊き行者にもあらじ。また敵に追ひ掛けられん時は、女房を静かに歩ませ奉り、先に立てたらんはよかるまじく候ふ」と申しけるが、思へば愛ほしや、この人は久我の大臣殿の姫君、九つにて父大臣殿には後れ参らせ給ひぬ。十三にて母北の方に後れ参らせ給ひぬ。その後は乳母の十郎権頭より外に頼む方ましまさず。容顔美しく、御情け深く渡らせ給ひけれども、十六の御年までは幽かなる御住まひなりしを、如何なる風の便りにかこの君に見え初められ参らせ給ひしよりこの方、君より外にまた知る人も渡らせ給はぬぞかし。惆悵の藤は松に離れて、便りなし。三従の女は男に離れて力なし。また奥州へ下り給ひたるとても、情けも知らぬ東女を見せ奉らんも痛はしく、御心の中も推量に朧けならではよも仰せられ出ださじ。さらば具し奉りて下らばやと思ひければ、「あはれ、人の御心としては、上下の分別は候はず。移れば変はる習ひの候ふに、さらば入らせおはしまして、事の体をも御覧じて、まことにも下らせおはしますべきにても候はば、具足し参らせ給ひ候へかし」と申しければ、判官世に嬉しげにて、「いざさらば」とて、柿の衣の上に薄衣被き給ひ御出である。
弁慶が申すには、「事も時と場合によりまする、山伏が頭巾篠県([修験者が衣服の上に着る麻の法衣])に笈([修験者などが仏具・衣服・食器などを収めて背に負う箱])を背負い、女房と連れ立てば、まったく尊い行者には見えませぬ。また敵に追い掛けられた時は、女房は捨てていなくてはなりません、連れて参るなどとんでもないことです」と申しましたが、義経は思えば思うほどにかわいそうになって、この人(郷御前)は久我大臣殿の姫君、九つで父であった大臣殿には先立たれました。十三で母であった北の方に先立たれました。その後は乳母の十郎権頭(兼房)のほかに頼りもありませんでした。顔かたち美しく、情け深い人でしたが、十六の年まではひっそりと暮らしていました、どういう風の便りにかこの君(源義経)に見え初められて、君のほかに知る人もいませんでした。惆悵([恨み嘆くさま])の藤は松に離れては、頼るものはありません。三従([いまだ嫁せずして父に従い、すでに嫁して夫に従い、夫死して子に従う])の女は男と離れては生きていけないものでした。また奥州へ下ったとしても、情けも知らぬ東女を妻にするのもかわいそうで、心の中もはっきりと思い遣られては別れも申せませんでした。ならば連れて下ろうと思っていると、弁慶は「つらいお気持ちは分かります、夫婦の絆に上下の区別はございません。時が移れば世も変わるものですれば、ならばお訪ねになられて、事情をお話になられて、ともに下られると申されるのならば、連れて行かれるのがよろしいでしょう」と申せば、判官(義経)はとてもうれしそうに、「ならばすぐに」と申して、柿の衣([山伏の着る、柿の渋で染めた衣])の上に薄衣を着て出かけて行きました。
(続く)