かの平泉寺と申すは山門の末寺なり。されば衆徒の規則も山上に劣らず、大衆二百人、政所の勢も百人、直兜にて夜半ばかりに観音堂にぞ押し懸けたる。十余人は東の廊下にぞ居たりける。判官と北の方は西の廊下にぞおはしたる。弁慶参りて、「今はこそと思え候ふ。これは余の所には似るべくも候はず。いかが御計らひ候ふ。さりながら叶はざるまでは、弁慶陳じて見候はん間、叶ふまじげに候はば、太刀を抜き、『憎い奴ばら』など申して飛んで下り候はば、君は御自害候へ」とぞ申して出でける。大衆に問答の間、「憎い奴ばら」と言ふ声やすると耳を立ててぞ聞き給ふ。心細くぞありける。衆徒申しけるは、「そもそもこれは何処山伏にて
候ふぞ。打ち任せては留まらぬ所にて候ふぞ」と申しければ、弁慶申しけるは、「出羽の国羽黒山の山伏にて候ふ」「羽黒には誰と申す人ぞ」「大黒堂の別当に讚岐の阿闍梨と申す者にて候ふ」と答へけり。
かの平泉寺というのは山門(比叡山延暦寺)の末寺でした。衆徒([僧])の規則も山上に劣ることなく、大衆([僧])二百人、政所([大社寺で、事務・雑務を取り扱った所])の勢も百人、直兜([鎧兜])に身を固め夜半ばかりに観音堂にぞ押しかけました。十人余りの山伏は東の廊下にいました。判官(源義経)と北の方(郷御前)は西の廊下にいました。弁慶は西の廊下に参って、「今は覚悟をお決めください。ここは今までのようには参りません。どうすればよいものか。とはいえいざとなるまでは、わたし弁慶が申してみようと思っております、もしうまくいかなかった時は、太刀を抜き、『憎い奴め』などと申して飛んで下りますから、君(義経)は自害なさいませ」と申して出て行きました。義経は弁慶が大衆と受け答えをしている間、「憎い奴め」と言う声を上げるのではないかと聞き耳を立てていました。心配だったのです。衆徒が申すには、「そもそもお主たちはどこの山伏であられるぞ。いいかげんなことを申すでないぞ」と申せば、弁慶が申すには、「出羽の国羽黒山の山伏でございます」「羽黒の何と申す者ぞ」「大黒堂の別当で讚岐の阿闍梨と申す者でございます」と答えました。
(続く)