「思ふ所に着きたるや」と悦びて、その夜の内に国上と言ふ所に上がりて、みくら町に宿を借り、明くれば弥彦の大明神を拝み奉りて、九十九里の浜にかかりて、蒲原の館を越えて、八十八里の浜などと言ふ所を行き過ぎて、荒川の松原、岩船を通りて、瀬波と言ふ所に左胡ぐひ、右靭、せんが桟などと言ふ名所名所を通り給ひて、念珠の関守厳しくて通るべき様もなければ、「いかがせん」と仰せられければ、武蔵坊申しけるは、「多くの難所を遁れて、これまでおはしましたれば、今は何事か候ふべき。さりながら用心はせめ」とて、判官をば下種山伏に作りなし、二挺の笈を嵩高に持たせ奉り、弁慶大の笞杖に突き、「歩めや法師」とて、しとと打ちて行きければ、関守どもこれを見て、
義経は「思う通りの場所に着いたぞ」とよろこんで、その夜の内に国上(現新潟県燕市国上)という所に上って、みくら町(?)に宿を借り、明ければ弥彦大明神(現新潟県燕市国上にある弥彦神社)を拝み奉り、九十九里浜を進み、蒲原(現新潟県北部)の館を越えて、八十八里浜などという所を行き過ぎて、荒川(現新潟県胎内市)の松原、岩船(現新潟県岩船郡)を通り、瀬波(現新潟県村上市)という所に左胡ぐい、右靭、せんが桟(瀬波の桟俵=米俵の底の部分。現新潟県村上市にある西奈彌神社の瀬波大祭)などという名所名所を通りましたが、念珠(念珠関。越後と出羽の国境にあった関所)の関守が厳しくて通ることができないように思えて、義経が「どうしたものか」と申せば、武蔵坊(弁慶)が申すには、「多くの難所を遁れて、ここまで来られたのです、今さら何事がございましょう。とは申せ用心なさいませ」と申して、判官(源義経)を下種山伏に見たて、二挺の笈([荷物や書籍を入れて背負う竹製の箱])を嵩高に背負わせ、弁慶は太い笞([ムチ])を杖に突き、「さあ歩け法師よ」と申して、強く鞭打ちながら進んだので、関守たちはこれを見て、
(続く)