秀衡判官の御使ひと聞き、急ぎ対面す。「このほど北陸道にかかりて、御下りとはほぼ承り候ひつれども、一定を承らず候ひつるに依つて、御迎ひ参らせず。越後、越中こそ恨みあらめ、出羽の国は秀衡が知行の所にて候へば、各々何故御披露候ひて、国の者どもに送られさせおはしまし候はざりけるぞ。急ぎ御迎ひに人を参らせよ」とて、嫡子泰衡の冠者を呼びて、「判官殿の御迎ひに参れ」と申しければ、泰衡百五十騎にてぞ参りける。北の方の御迎ひには御輿をぞ参らせける。「かくもありける物を」と仰せられて、磐井の郡におはしましたりければ、秀衡左右無く我が許へ入れ参らせず、月見殿とて常に人も通はぬ所に据ゑ奉り、日々の椀飯をもてなし奉る。北の方には容顔美麗に心優なる女房たち十二人、その外下女半物に至るまで、整へてぞ付け奉る。
秀衡(藤原秀衡)は判官(源義経)の使いと聞いて、急ぎ対面しました。「この度は北陸道を通り、下ることは大体聞いておりましたが、違いなくこちらに参るとは思いませんでしたので、お迎えに参らせませんでした。越後、越中の者には恨みもありましょうが、ここ出羽の国はわたし秀衡が知行([国務を執り行うこと])の所でありますれば、どんなご用でもお知らせいただき、国の者どもに送らせなかったのですか。急ぎ迎えの者を遣らせます」と申したので、秀衡の嫡子である泰衡冠者(藤原泰衡。秀衡の二男)を呼んで、「判官殿(義経)のお迎えに参れ」と申すと、泰衡は百五十騎で迎えに参りました。義経の北の方(郷御前)には輿を参らせました。義経は「最初からこうしておればよかったものを」と申して、磐井郡(岩手県西磐井郡)にやって来ると、秀衡は判官を自分の屋敷には入れずに、月見殿という常は人も通わない所に置いて、日々の椀飯([饗応すること])をもてなしました。北の方には容顔([顔かたち])美しく思いやりがある女房たち十二人、そのほかに下女([女中])半物([女房の身分が中位である者])にいたるまで、取り揃えて付け参らせました。
(続く)