去年の春の頃、わざと人を下して、『継信討たれ候ひぬ』と告げて候ひしかば、斜めならず悲しみ候ひけるが、『継信が事はさて力及ばず、明年の春の頃にもなりなば、忠信が下らんと言ふ嬉しさよ。早や今年の過ぎよかし』なんど待ち候ふなるに、君の御下り候はば、母にて候ふ者、急ぎ平泉へ参り、『忠信はいづくに候ふぞ』と申さば、継信は屋島、忠信は吉野にて討たれけると承りて、如何ばかり歎き候はんずらん。それこそ罪深く思えて候へ。君の御下り候ひて、御心安く渡らせおはしまし候はば、継信忠信が孝養は候はずとも、母一人不便の仰せをこそ預かりたく候へ」と申しも果てず、袖を顔に押し当てて泣きければ、判官も涙を流し給ふ。十六人の人々も皆鎧の袖をぞ濡らしける。
去年の春頃、人を下して、『継信(佐藤継信)が討たれました』と母に知らせましたが、たいそう悲しんで、『継信のことはあきらめましょう、明年の春頃になれば、忠信(佐藤忠信)が下ると聞いてうれしく思います。ああ早く今年が過ぎればよいものを』などと申して待っております、君(源義経)が奥州に下られれば、母は、急ぎ平泉(現岩手県西磐井郡平泉町)へ参り、『忠信はどこですか』と申して、継信は屋島(現香川県高松市)、忠信は吉野(現奈良県吉野郡吉野町)で討たれたと聞けば、どれほど嘆き悲しむことでしょう。罪深く思えてなりません。君(義経)がお下りになられて、無事奥州にお着きになられたならば、継信忠信の孝養([供養])はされずとも、母一人ばかりに憐れみの言葉を掛けていただきたいと存じ上げます」と申し終わらないうちに、袖を顔に押し当てて泣いたので、判官(義経)も涙を流しました。十六人の者たちも皆鎧の袖を濡らしました。
(続く)