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「義経記」忠信吉野山の合戦の事(その1)

それ師の命に代はりしは、内供智興ないこうちこうの弟子証空しようくう阿闍梨、夫の命に代はりしは、東婦とうふ節女せつぢよなりけり。今命を捨て身を捨てて、主の命に代はり、名をば後代に残すべき事、源氏の郎等らうどうくはなし。上古しやうこは知らず、末代にためしあり難し。義経今は遙かに延びさせ給ふらんと思ひ、忠信ただのぶ三滋目結みつしげめゆい直垂ひたたれに、緋威ひをどしよろひ白星しらぼしの兜のを締め、淡海公より伝はりたるつつらいと言ふ太刀三尺さんじやく五寸ありけるをき、判官はうぐわんより賜はりたる黄金作こがねづくりの太刀を帯きへにし、大中黒おほなかぐろの二十四差したる、上矢には青保呂あをほろ、鏑の目より下六寸ばかりあるに、だい雁股かりまたすげて、佐藤のいへに伝へて差す事なれば、蜂食はちばみの羽を以つていだる一つ中差しをいづれの矢よりも一寸はずを出だして差したりけるを、頭高かしらだかに負ひなし、節木ふしきの弓のほこ短く射よげなるを持ち手勢七人、中院ちゆうゐんの東谷に留まりて、雪の山を高くきて、譲葉ゆづりは榊葉さかきばを散々に切り差して、まへには大木を五六本楯に取りて、麓の大衆だいしゆ二三百人を今や今やとぞ待ちたりける。




師の命に代えたのは、内供智興(現滋賀県大津市にある三井寺の高僧だったらしい)の弟子証空阿闍梨(内供智興の病いを代わりに身に受けたそうな。この話に阿部清明が登場するから平安初期?)、夫の命に代えたのは、東婦節女(正しくは東帰。『孝子伝』)でした、忠信ただのぶ(佐藤忠信)も今また命を捨て身を捨てて、主(源義経)の命に代わり、名を後代に残そうと思ったのでした。源氏の郎等([家来])ほど忠義を致す者はありませんでした。上古のことは知りませんが、末代に例があるとも思えませんでした。義経は今は遙かに落ちて行かれたと思い、忠信は三滋目結([滋目結]=[鹿の子絞りの総絞り])の直垂([鎧の下に着る着物])に、緋威([緋色に染めた革や組紐などで威した鎧])の鎧、白星([兜の星の、表を銀で包んだもの])の兜の緒を締め、淡海公(藤原不比等ふひと)より伝わるつつらい(氷柱井つららゐ?)という太刀で三尺五寸(約105cm)あるものを腰に差し、判官(義経)より賜わった黄金作りの太刀([太刀の金具を金銅づくりにしたもの])を添えて差して、大中黒([鷲の矢羽根で、中央部の黒いが 大きいもの])矢を二十四本差し、上矢([上差しに使う、鏑矢かぶらや])には青保呂([保呂羽]=[鳥の両翼の下の羽])に、鏑の目より下六寸(約18cm)ほどのところに、大の雁股([やじりの一。先が二またに分かれ、内側に刃をつけたもの])を付けたものを、佐藤家では代々差す習いでしたので、蜂食(蜂喰はちくひ。ブッポウソウ目ハチクイ科の鳥)の羽で矧いだ中差し([えびらの中にさした矢で 、表にさす上差しに対していう])を一本ほかの矢よりも一寸(約3cm)筈([矢筈]=[矢の弓に番える部分])を出して差した箙([矢を入れる道具])を、頭高([[矢が肩越しに高く見えるように箙を負うこと])に負い、節木([節の多い木])の弓の戈(弓の曲がった部分?) が短く射やすそうなものを持って手勢七人で、中院の東谷に留まり、雪の山を高く積み上げて、譲葉(ユズリハ科ユズリハ属の常緑高木)を榊葉([神に供える榊の枝葉])として散らし、前の大木を五六本楯代わりにして、麓の大衆([僧])二三百人を今か今かとぞ待ち構えました。


続く


by santalab | 2014-02-25 23:03 | 義経記

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