忠信思ふ座敷にむずと居直り、菓子ども引き寄せて、思ふ様にしたためて居たるところに、敵の声こそ喚きけれ。忠信これを聞きて、提子盃取り廻らんほどに、時刻移しては叶はずと思ひ、酒に長じたる男にて、瓶子の口に手を入れて、傍らを引きこぼして打ち飲みて、兜は膝の下に差し置き、少しも騒がず、火にて額焙りけるが、重き鎧は着たり、雪をば深く漕ぎたり。軍疲れに酒は飲みつ、火には当たる、敵の寄せ手喚くをば、夢に見て眠り居たりけり。大衆ここに押し寄せて、「九郎判官これに御渡り候ふか、出でさせ給へ」と言ひける声に驚いて、兜を着、火を打ち消して、「何に憚りをなすぞや。心ざしのある者はこなたへ参れや」と申しけれども、命を二つ持ちたらばこそ、左右なくも入らめ、ただ外に渦巻い居たり。山科の法眼申しけるは、「落人を入れて、夜を明かさん事も心得ず、我ら世にだにもあらば、これほどの家一日に一つづつも造りけん。ただ焼き出だして射殺せ」とこそ申しける。
忠信(佐藤忠信)は思うままに座敷にどっかり座ると、すぐに菓子を引き寄せて、頬張っているところに、敵が喚く声が聞こえました。忠信はこれを聞いて、提子([銀・錫製などの、鉉と注ぎ口のある小鍋形の銚子])と盃を持ちながら様子を窺って走り回っていましたが、時間が経てばまずくなると思いました、酒好きだったので、瓶子の口に手を入れて、あたりにこぼしながら急ぎ飲みました、兜は膝の下に置き、少しも騒がず、火に当たっていましたが、重い鎧を着て、雪深い所を漕ぎ分けたので、[軍疲れに酒を飲み、火に当たり、敵の寄せ手が喚くのを、夢に見ながら眠ってしまいました。大衆([僧])はそんなところに押し寄せて、「九郎判官(源義経)はここにおられるか、出て来られよ」と言う声に驚いて、兜をかぶり、火を打ち消して、「遠慮はいらぬ。思う者はことらに参れ」と申しましたが、命を二つ持つ者ならともかく、命を惜しんで入って来る者もなく、ただ外を取り囲むばかりでした。山科法眼が申すには、「落人を坊に入れたまま、夜を明かしては恥となる。我らの世であれば、これほどの家など一日に一つづつも造れよう。ただ焼き出して射殺せ」と申しました。
(続く)