麓に下りて、左衛門にこの由言ひければ、「ほど近くおはしましけるに、今まで仰せ蒙らざりけるよ」とて、身に親しき者五六人呼びて、様々の菓子積み、酒、飯ともに長櫃二合、桜谷へぞ参らせける。これほど心安かりける事をと仰せられて、十六人の中に二合の長櫃掻き据ゑて、酒に望みをなす人もあり、飯をしたためんとする人もあり。思ふげに取り散らして行はんとし給ふところに東の杉山の方に人の声幽かに聞こえけるを怪しとや思し召されけん、「売炭の翁も通はねば、炭焼きとも思えず。峰の細道遠ければ、賎が爪木の斧の音とも思はれず」と後ろをきつと見給へば、一昨日中院の谷にて四郎兵衛に討ち洩らされたる吉野法師、いまだ憤り忘れずして、甲冑を鎧ひて、百五十ぞ出で来たる。
弁慶は麓に下り、御嶽左衛門にこれを伝えると、「ほど近くにおられたのに、どうして今まで何も申されませんでした」と申して、親しい者を五六人呼んで、様々の菓子を積み上げ、酒、飯とともに長櫃二合に詰めて、桜谷へ参らせました。これほどのことならばと申して、十六人の中に二合の長櫃を据えました、酒を望む者もあり、飯を食おうと思う者もいました。思うままに取り散らかそうと思うところに東の杉山の方から人の声がかすかに聞こえたので怪しく思って、義経が「売炭の翁もさえ通わぬ道ぞ、炭焼きとも思えない。峰の細道からも遠ければ、賎([木こり])が爪木([薪])を伐る斧の音とも思えない」と後ろをじっと見れば、一昨日中院の谷で四郎兵衛(佐藤忠信)に討ち洩らされた吉野法師が、まだ怒りをなして、甲冑([鎧兜])を身に付けて、百五十人ばかりやって来ました。
(続く)