虫の音渡りて月高く、いづれも哀れは秋の夕、憂しとても逃れん術なき己が影を踏みながら、腕こまねきて小松殿の門を立ち出でし滝口時頼。露に濡ちてか、布衣の袖重げに見え、足の運びさながら酔へるが如し。今さら思ひ定めし一念を吹き返す世に秋風はなけれども、積もり積もりし浮世の義理に迫られ、胸は涙に塞がりて、月の光も朧ろなり。武士の名残りも今宵を限り、余所ながらの告別とは知り給はで、亡からん後まで頼み置かれし小松殿。御仰せの忝さと、是非もなき身の不忠を想ひやれば、御言葉の節々は骨を刻むよりなほつらかりし。哀れ心の灰に冷え果てて浮世に立てん煙もなき今の我、ああ何事も因果なれや。
虫の音が冴え渡り月は空高く、いずれにせよ悲しい秋の宵でした、悲しくとも逃れることのできない己の影を踏みながら、腕組みをして考え込むように小松殿の門を出た滝口時頼(斎藤時頼)でした。露に濡れたのか、衣の袖は重そうで、酔ったかのように足の運びもゆるやかでした。今さら思い定めた出家の一念を吹き返す秋風は浮世にありませんでしたが、積もり積もった浮世の義理が身に迫って、胸は涙に塞がれて、月の光もかすみました。武士の名残りも今宵を限りに、遠く去ることも知らずに、亡き後まで時頼に頼み置いた小松殿(平重盛)。仰せをかたじけなく思う半面、どうにもできない我が身の不忠を思うと、重盛の言葉の節々が骨を刻むよりつらく思われました。時頼の心は灰と冷え果てて浮世に立てる煙もありませんでした、ああこれも因果([前に行った善悪の行為が、それに対応した結果となって現れるとする考え])というものでしょうか。
(続く)