「罪造りの横笛殿、あたら勇士の世を捨てさせし」。ああ半ば戯れに、半ば法界悋気のこの一言、横笛が耳には如何に響きしぞ。恋に望みを失ひて浮世を捨てし男女の事、昔の物語に見し時は世に痛はしき事に思えて、草色の袂に露の哀れを置きし事ありしが、なほ現ならぬ空事とのみ思ひきや、今や目の間かかる悲しみに遭はんとは。しかも世を捨てしその人は、命を懸けて己れを恋ひし滝口時頼。世を捨てさせしその人は、愛しとは思ひながらも世の関守に隔てられてつれなしと見せたる己れ横笛ならんとは。余りの事にとかうの考へも出でず、夢幻の思ひして身を小机に打ち伏せば、「あたら武士に世を捨てさせし」と怨むが如く、嘲るが如き声、いづこよりともなく我が耳に響きて、その度毎に総身さながら水を浴びし如く、心も体も凍らんばかり、襟を伝ふ涙の滴のみさすが哀れを隠し得ず。
「罪造りな横笛殿が、あれほどの勇士に世を捨てさせたそうですね」。ああ冗談まじりに、法界悋気([嫉妬])を含んだこの一言が、横笛の耳には何と聞こえたのでしょうか。恋に望みを失って浮世を捨てた男女のことを、昔の物語で知った時は気の毒なことに思えて、草色の袂に涙の悲しみを流したこともありましたが、現でない作り話のことと思って、今目前に同じ悲しみに遭うとは思っていませんでした。しかも世を捨てた人は、命をかけて横笛を恋した滝口時頼でした。世を捨てさせたその者は、恋しく思いながらも世の関守に隔てられてつれなく見せた横笛本人でした。あまりの出来事にどうしてよいのかわからず、夢幻のような思いがして身を小机にうち伏せると、「あれほどの武士に世を捨てさせたのだ」と怨むような、あざけるような声が、どこからともなく横笛の耳に聞こえてきました、その度に全身に水を浴びせられたような気がして、心も体も凍るようでした、襟を伝う涙のしずくだけはさすがに悲しみを隠すことはできませんでした。
(続く)