女子こそ世に優しきものなれ。恋路は六つに変はれども、思ひはいづれ一つ魂に映る哀れの影とかや。つれなしと見つる浮世に長らへて、朝顔の夕べを待たぬ身に百年の末懸けて、おぼつかなき朝夕を過ごすも胸に包める情けの露のはればなり。恋からぬか、女子の命はそも何に喩ふべき。人知らぬ思ひに心を破りて、あはれ一山風に跡もなき東岱前後の煙と立ち昇るうら若き見目良き娘は、年毎にいかありとするや。世のままならぬは是非もなし、ただただいささ川、底の流れの通ひもあらで、人はいざ、我にも語らで、世をはかなむこそ浮世なれ。
女子ほど世に優しいものはありません。恋路は六つ([六道]=[衆生がその業によって赴く六つの世界。地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道])に変わっても、思いは一つただ心の思うがままに悲しみの影を映すのです。情けの通わぬ憂き世に身を長らえて、朝顔が夕べを待たずにしぼむそのわずかの間に百年の生涯を懸けて、心落ち付かず朝夕を過ごすのも胸に秘めた愛情があるからなのです。恋というべきか、女子の命を何にたとえればよいのでしょう。人知れぬ恋に心を痛めて、ああ一度の山風に跡も残さず東岱([太山]=[高く大きな山])の煙となって立ち昇る若い美しい娘は、年毎に何を思うのでしょうか。世はままならぬものではあるけれども、ただただ小川のように、底の流れさえ通うこともなくなった時、人はなぜ、人知れず、世をはかなく思うのでしょうそれが浮世というものでしょうか。
(続く)