頃は長月の半ば過ぎ、入り日の影は雲にのみ残りて野も山も薄墨を流せしが如く、月いまだ上らざれば、星影さへもいと稀なり。袂に寒き愛宕下しに秋の哀れは一入深く、まだ露下りぬ野面に、我が袖のみぞはや潤ひける。右近の馬場を馬手に見て、いづれ昔は花園の里、霜枯れしの野草を心ある身に踏みしだきて、太秦渡り辿り行けば、峰岡寺の五輪の塔、夕べの空に形のみ見ゆ。やがて月は上りて桂の川の水煙り、山の端白く閉じ込めて、尋ぬる方は朧ろにして見え分かず。もとより慣れぬ徒歩なれば、あまた度あるひは里の子が落ち穂拾はん畦道にさすらひ、はるひは露に伏す鶉の床の草むらに立ち迷うて、糸より細き虫の音に、おぼつかなき行方を託てども、問ふに声なき影ばかり。名も懐かしき梅津の里を過ぎ、大堰川の畔を沿ひ行けば、川風寒く身に染みて、月影さへもわびしげなり。裾は露、袖は涙に打ち萎れつ、霞める目に見渡せば、嵯峨野もいつしか奥になりて、小倉山の峰の紅葉葉、月に黒みて、釈迦堂の山門、木立の間に鮮やかなり。噂に聞きしは嵯峨の奥とのみ、いづれの院とも坊とも知らざれば、何を頼りに尋ぬべき、灯の光をあてに、数もなき在家をあなたこなたに彷徨ひて問ひけれども、絶えて知る者なきに、いよいよ心惑ひてただただ茫然と野中に佇みける。折りから向かふより庵僧と思しき一人の僧の通りかかれるに、横笛、渡りに舟の思ひして、「慮外ながらこの渡りの庵に、近き頃様を変へて都より来られし、俗名斎藤時頼と名乗る歳若き武士のおはさずや」。声震はして尋ぬれば、件の僧は、横笛が姿を見てしばし首傾けしが、「露繁し野を女性のただただ一人、さてもさても痛はしき御事や。げにさる人ありとこそ聞きつれど、まだその人に遭はざれば、御身が尋ぬる人なりや、否やを知り難し」。「してその人はいづこにおはする」。「そはここより程遠からぬ往生院の名付くる古き僧庵に」。
頃は長月([陰暦九月])の半ば過ぎのことでした、夕陽の光が雲にだけ残り野も山も薄墨を流したように暗く、月もまだ上らず、星の光さえまばらでした。袂に愛宕山(今の京都市右京区にある山)から吹きつける風は冷たく秋の悲しみはいっそう深くなったようでした、まだ露も下りない野原にも、横笛の袖は早くも涙で濡れるのでした。右近の馬場([右近衛府に属した馬場。平安京一条大宮の北にあった])を右手に見れば、昔は花園の里と呼ばれた所(今の京都市右京区)、霜枯れた野草を踏みながら、太秦(今の京都市右京区)までたどり着くと、峰岡寺(広隆寺。今の京都市右京区太秦にある寺)の五輪塔([仏塔])が、夕空に影を映していました。やがて月が上って桂川(今の京都市西部を流れる川)に秋霧立ち、山裾を白く閉じ込めて、横笛の訪ねる先はかすんでよく見えませんでした。慣れない歩きでしたので、何度も里の子が落ち葉を拾う畦道に迷い、露にうずくまる鶉の床([野宿する場所]=[野原])の草むらに道も見失って、糸よりも心細げに鳴く虫の音に、心許ない行く先を嘆きましたが、道を訊ねても答える声はありませんでした。聞くに懐かしい梅津の里(今の京都市右京区梅津。御室にほど近い)を過ぎて、大堰川(桂川の上流)のほとりに沿って行けば、冷たい川風が身に染みて、月の光さえさみしげに見えました。横笛の裾は露に、袖は涙に濡れて、涙にかすんだ目で見渡せば、嵯峨野(今の京都市右京区嵯峨)の奥でした、小倉山(京都市右京区嵯峨にある山)の紅葉葉は、月影に暗く、釈迦堂(今の京都嵯峨にある清涼寺の釈迦堂)の山門が、木立の間に色鮮やかに見えました。噂に聞くのは嵯峨の奥とだけ、どこの院とも坊とも知らなかったので、何を頼りに訪ねればよいものかと、ただ灯の光をたよりに、数少ない在家([家])をあちらこちらさまよい歩いて訊ねましたが、まったく知る者もなく、ますます横笛はうろたえてただただ茫然と野原に立ちつくしました。ちょうどその時向こうから庵僧と思われる一人の僧が通りかかりました、横笛は、渡りに舟と思って、「無礼とは存じますがこのあたりの庵に、最近様を変えて都から来た、俗名斎藤時頼という名の歳若い武士はおりますか」と訊ねました。横笛が怖ず怖ずとためらいがちに訊ねたので、僧は、横笛の姿を見てしばらく怪しげに見ていましたが、「露多い野を女性がただ一人、ただただ気の毒なことでございます。確かにそのような人がいると聞いてはおりますが、まだその人に遭ったことはございませんので、あなたが訊ねる人か、どうかはわかりません」と答えました。横笛は「その人はどこにおりますか」と聞きました。僧は「その人はここよりそれほど遠くない往生院(かつて今の京都市右京区嵯峨にあった寺)という古い僧庵にいるそうです」と答えました。
(続く)