深草の里に老婆が物語、聞けば他人事ならず、いつしか身に降りかかる哀れの露、泡沫夢幻と悟りても、今さら驚かれぬる世の起き伏しかな。様を変へしとはそも何を観じての発心ぞや、憂いに死せしとはそも誰にかけたる恨みぞ。ああ横笛、我人ともに誠の道に入りし上は、影よりも淡き昔の事は問ひしもせじ語りもせじ、閼伽の水汲み絶えて流れに宿す影留まらず、観経の音止みて梢にとまる響きなし。いづれ業繁の身の、心と違ふ事のみぞ多かる世に、夢中に夢を託ちて我何かせん。
深草の里(今の京都市伏見区北部)で老婆に聞いた話は、まったく他人事ではありませんでした、いつしか我が身に降りかかる悲しみの露は、泡沫夢幻([水の泡と夢と幻。はかないもののたとえ])と分かってはいても、今さらに驚く世の起き伏し([日常])事でした。様を変えたのはいったい何を思っての発心([仏門に入ること])だったのか、悲しみで亡くなったのはそもそも誰を恨んでの事なのか。ああ横笛よ、我とともに仏道に入った上は、影よりも淡い昔の事は聞かれもせず語りもしないことだが、滝口(斎藤時頼)は閼伽([仏に手向ける水])の水汲みをしなくなり水の流れに宿す影もありませんでした、観経([経文を読むこと])の声も滞って梢に残る響きもありませんでした。業深いこの身が、心と違うことばかり多いこの世にあって、夢の中で夢に不満を言ったところで仕方のないことでした。
(続く)