盛りの花と人に惜しまれ、世に歌はれて、春の真中に散りにし人の羨まるるかな。陽炎の影より淡き身をなまじひ生き残りて、木枯らしの風の宿と成り果てては、我がために哀れを慰むる鳥もなし、家倒れ国滅びて六尺の身置くに所なく、天低く地薄くして昔を返す夢もなし。―ああ思ふまじ、我ながら不覚なりき、修行の肩に歌袋かけて、天地を一炉と観ぜし昔人もありしに、三衣を纏ひ一鉢を捧ぐる身の、世の盛衰に離れ得ず、生死流転の間にさまよへるこそ口惜しき至りなれ。世を捨てし昔の心を思ひ出せば、よしや天落ち地裂くるとも、今さら驚くいわれやある。常なしと見つるこの世に悲しむべき秋もなく、喜ぶべき春もなく、青山白雲とこしなへに白し。あはれ、本覚大悟の智慧の火よ、我が胸になほ蛇の如くまつはれる一切煩悩を渣滓も残らず焼き尽くせよかし。
盛りの花と人に惜しまれながら、世に褒めたたえられた重盛(平重盛)が、春の真っ盛りに散ってしまったことがかえって羨ましくも思えました。陽炎([夜明け方の光])の光よりもなお淡い身を無駄に生き残って、木枯らしの風の住みかを宿とするまで落ちぶれては、わたしの悲しみを慰めてくれる鳥もなく、家は倒れ国が滅べば六尺の我が身の置き所もなく、天は低く地は薄くとも昔に戻りたいと思う夢もない滝口(斎藤時頼)でした。―ああ考えるのはやめよう、わたしとしたことが不覚であった、修行の肩に歌袋([和歌の原稿を入れておく袋])をかけて、天地を一つの炉([火や香などをたく器具])と見た昔人(柿本人麻呂?)もあったそうだが、三衣([法衣])をまとい一鉢を捧げる身であっても、世の盛衰から逃れることはできず、生死流転([生死を繰り返し、はてしなく三界六道の迷界をめぐること])の間にさまようことが残念でなりませんでした。浮世を捨てた昔を思い出せば、たとえ天が落ち地が裂けても、今さら驚くべきことではありませんでした。無常に見えるこの世には悲しむべき秋もなく、喜ぶべき春もなく、青山に浮かぶ白雲は永遠に白いままでした。ああ、本覚大悟([人間に本来等しく備わっている仏の悟りを知ること])の智慧の火よ、我が胸になお蛇のようにまとわり付く一切の煩悩([身心を悩まし苦しめ、煩わせ、けがす精神作用])を渣滓([かす])も残らず焼き尽くせ。
(続く)