六年と申しし四月に、太子良き馬を求めしめ給ひしに、甲斐の国より黒き馬の四の足白きを奉れりき。太子多くの馬の中よりこれを選び出して、九月にこの馬に乗り給ひて、雲の中に入りて、東を指しておはしき。麻呂と云ふ人ひとりぞ御馬の右の方に取り付きて、雲に入りにしかば、見る人驚き浅み侍りしほどに、三日ありて帰り給ひて、「我この馬に乗りて、富士の嶽に至りて、信濃の国へ伝はりて帰り来たれり」とのたまひき。十一年と申しし十一月に、太子の持ち給へりし仏像を「この仏、誰か崇め奉るべき」とのたまひしに、秦河勝進み出でて申し請け侍りしかば、賜はせたりしを、蜂岡寺を造りて、据ゑ奉りき。その蜂岡寺と申すは、今の太秦なり。仏は弥勒とぞ承り侍りし。
推古天皇六年(598)と申す四月に、聖徳太子は良い馬を探させましたが、甲斐国より黒馬で四本の足が白い馬が献上されました。聖徳太子は多くの馬の中からこの馬を選び出して、九月にこの馬に乗り、雲の中に入り、東を指して行きました。麻呂という者がこの馬の右方に取り付いて、雲に入って行ったので、これを見る者は驚きびっくりしましたが、三日後に帰って来て、「わたしはこの馬に乗りて、富士山に着いて、信濃国を回って帰って来たのだ」と申しました。推古天皇十一年(603)の十一月に、聖徳太子が持っていた仏像を「この仏を、誰か崇めたいと思う者に差し上げよう」と申したので、秦河勝が進み出て申し請けて、賜わりました、秦河勝は蜂岡寺を造って、この仏像を安置しました。この蜂岡寺と申すは、今の太秦寺(現京都市右京区太秦にある広隆寺)のことです。仏は弥勒菩薩と聞いております。
(続く)