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「水鏡」天武天皇(その1)

次の御門、天武てんむ天皇てんわうまうしき。舒明じよめい天皇の第三の御子。御母、斉明さいめい天皇なり。天智てんぢ天皇の御世七年二月に東宮に立ち給ふ。癸酉みづのととりの年二月二十七日に位に即き給ふ。世を知り給ふ事十五年なり。この御門、うち任せては位に即き給ふべかりしかども、またあり難くして即き給ひしなり。世を遁れ給ひし事、天智天皇の御事の中に申し侍りぬ。天智天皇、十二月三日亡せさせ給ひにしかば、同じき五日、大友皇子おほとものみこ位を継ぎ給ひて、明くる年の五月に、なほこの御門を疑ひ奉りて、家出して吉野の宮に入り籠らせ給へりしを、左右の大臣もろともに兵を起こして、吉野の宮を囲み奉らんと謀りしほどに、この事洩れ聞こえにき。美濃尾張の国に、天智天皇の陵を造らん料とて、人夫をその数召すに、皆兵の具を持ちてまゐるべき由仰せ下さる。「この事さらに陵の事にあらず。必ず事の起り侍るべきにこそ。この宮を逃げ去り給はずば悪しかりなん」と告げ申す人あり。また「近江の京より大和の京まで所々に皆兵を置きて守らしめ侍る」など申す人もありき。大友皇子の御妻はこの御門の御娘なりしかば、みそかにこの事の有様を御消息には告げ申し給へりけり。




次の御門、天武天皇(第四十代天皇)と申されました(「水鏡」では第三十九代弘文こうぶん天皇が省かれているが、弘文天皇が認められたのは明治三年(1870)のことなので当然です)。舒明天皇(第三十四代天皇)の第三皇子でした。母は、斉明天皇(第三十五代皇極くわうぎよく天皇=第三十七代斉明天皇)でした。天智天皇(第三十八代天皇)の御宇天智天皇七年(668)の二月に東宮([皇太子])に立たれました。癸酉の年(673)の二月二十七日に帝位に即かれました。世を治められること十五年でした。天武天皇は、帝位(壬申の乱(672)で第三十八代天智てんぢの皇子である第三十九代弘文天皇と戦った)に即かれることはないように思われましたが、紆余曲折の後帝位に即かれたのでした。天武天皇(大海人皇子おほあまのみこ)が世を遁れられたことは、天智天皇のところですでに申しました(出家して吉野に遁れた)。天智天皇が、十二月三日にお隠れになられると、同じ十二月五日に、大友皇子(弘文天皇)が帝位を継がれましたが、明くる年の五月に、なおも天武天皇に疑いを持たれたので、天武天皇は家出して吉野宮(現奈良県吉野郡吉野町)に入り籠りましたが、左右の大臣は揃って兵を起こして、吉野宮を包囲しようと企てました、この計画が漏れ聞こえました。天武天皇は美濃尾張の国から、天智天皇の墓陵(現在、現京都市山科区にあります)を造るために、人夫を数多く集めましたが、皆兵具を持って参るよう命じました。「人を集めるのは墓陵を造るためではありません。必ず戦が起るでしょう。この宮から逃げ出さなければなりません」と知らせる者がありました。また「近江京より大和京まで要所には皆兵を置いて守らせましょう」などと申す者もありました。大友皇子の妻は天武天皇の娘(十市皇女とおちのひめみこ)でしたので、密かに大友皇子の企てを文で知らせたのでした。


続く


by santalab | 2014-03-15 10:14 | 水鏡

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