同じき三年三月に難波より大和の平城の京へ都遷りて、左右京の条坊を定め給ひき。これより前々も代々常に京遷り侍りしかども、ことならぬをば申し侍らず。この月に不比等、興福寺を山科より奈良の京に移し建て給ひき。同じき六年、国々の郡の名を記して、様々の出で来る物どもの数を目録をせさせしめ給ひき。同じき七年十月、維摩会を山階寺に移し行ひ給ひき。この会は九所にて行はれしに、その事中絶えて、今年四十二年にぞなり侍りし。同じき八年九月三日、位を御娘の元正天皇の氷高内親王と聞こえ給ひしに譲り奉り給ひき。
同じ和銅三年(710)の三月に難波より大和の平城京へ都遷りがあり、左右京の条坊を定めました。これより前の時代にも代々常に京を遷されましたが、珍しいことではありませんので申さずにおりました。この月に不比等(藤原不比等)は、興福寺を山科より奈良の京に移し建てました。同じ和銅六年(713)に、国々の郡の名を記して、様々な産出する物を数えて目録にしました。同じ和銅七年(714)十月には、維摩会を山階寺(現奈良県奈良市にある興福寺)に移されて執り行いました。この会は九所で行われましたが、その後は絶えて、今年で四十二年経っていました。同じ和銅八年(715)の九月三日に、元明天皇は帝位を娘である元正天皇(第四十四代天皇)で氷高皇女と申されておられましたがお譲りになられました。
(続く)