次の御門、称徳天皇と申しき。これは孝謙天皇のまた返り即き給へりしなり。天平宝字八年十月九日、位に即き給ふ。御年四十七。世を知り給ふ事五年なり。同じき九年に淡路の廃帝、国土を呪ひ給ふによりて、日照り大風吹きて、世の中悪くて、飢ゑ死ぬる人多かりきと申し合ひたりき。十月に廃帝怨みの心に堪へずして垣を越えて逃げ給ひしを、国守兵を起こして止め申ししかば、帰り給ひて明くる日亡せ給ひにき。閏十月二日、大臣禅師道鏡、太政大臣になりき。十一月に大嘗会ありしに、我仏の御弟子となれりとて、出家の人も相交りて仕はるべき由仰せられき。今年西大寺を造り給ひて金銅の四天王を鋳奉り給ひしに、三体は成り給ひて、いま一体の、七度まで鋳損はれ給ひしかば、御門誓ひ給ひて、「もし仏の徳によりて、永く女の身を捨てて仏となるべくば、銅の沸くに我が手を入れん。この度、鋳られ給へ。もしこの願い叶ふべからずば、我が手焼けて損なうなはるべし」とのたまひしに、御手にいささかなる疵なくして、天王の像なり給ひにき。
次の帝は、称徳天皇(第四十八代天皇)と申されました。孝謙天皇が重祚されたのでした。天平宝字八年(764)の十月九日に、帝位に即かれました。御年四十七でした。世を治められること五年でした。同じ天平宝字九年(765)に淡路廃帝(第四十七代淳仁天皇)は、国土を呪われたので、日照り大風が吹いて、世の中は悪くなり、飢え死ぬ者が多かったということです。十月に廃帝(淳仁天皇)は怨みの心のあまりに垣を越えて逃げましたが、国守が兵を集めて捕らえると、配所に帰った明くる日に亡くなりました。閏十月二日に、大臣禅師道鏡が、太政大臣になりました。十一月に大嘗会([大嘗祭=天皇が即位後初めて行う新嘗祭。に行われる節会])がありました、称徳天皇はわたしも仏の弟子となったのだから、出家の人も大嘗会に参加するよう命じられました。この年西大寺(現奈良県奈良市にある寺)を造られて金銅の四天王を鋳造しました、三体は完成し、あと一体は、七度まで鋳損われたので、称徳天皇は誓いを立てて、「もし仏の徳によって、永く女の身を捨てて仏となるように、沸く銅の中にわたしの手うを入れましょう。どうか今度は、仏ができますように。もしこの願いが叶わないならば、わたしの手を焼いてください」と申すと、手にはわずかのきずもなく、天王の像が出来上がりました。
(続く)