十一月に中務卿伊予親王、御門を傾け奉らんと謀り奉ると云ふ事聞こえて、母の夫人ともに川原寺の北なりし所に籠められ給へりしに、みづから毒を食ひて亡せ給ひにき。その親王管絃の方優れ給へりき。その後、世の中、心地起こりて、大嘗会も止まりにき。同じき三年、慈覚大師、生年十五にて比叡の山に登り給ひて、伝教大師の御弟子になり給ひしなり。もとは下野の国の人におはす。いまだ下野におはせしに、伝教大師を夢に見奉りて、明け暮れ、いかで大師の御許へ参らんと思ひ給ひしに、遂に人に付きて登り給ひて、山に登りて見奉り給ひしに、夢の御姿にいささか違ひ給はざりき。同じき四年に、御門春の頃より例ならず思されて、怠り給はざりしかば、御位を御弟の東宮に譲り奉りて、太上天皇と申しき。御子の高岳親王を東宮に立て申し給ふ。
十一月に中務卿伊予親王(第五十代桓武天皇の第三皇子らしい)が平城天皇(第五十一代天皇)を傾けようと企てているということが聞こえて、母である夫人(藤原大夫人。藤原吉子)とともに川原寺(かつて現奈良県高市郡明日香村にあった寺)の北にある所に幽閉されましたが、自ら毒を食って亡くなりました。伊予親王管絃の才能に優れていました。その後、世の中、疫病が起こり、大嘗会([大嘗祭=天皇が即位後初めて行う新嘗祭。そのに行われる節会])も中止になりました。同じ大同三年(808)、慈覚大師(円仁)は、生年十五で比叡山に登り、伝教大師(最澄)の弟子となりました。もとは下野国の人でした。下野にいた時、伝教大師を夢に見て、明け暮れに、何とかして伝教大師の許へ参りたいと思っていましたが、遂に人に連れられて登ることになって、比叡山に登って伝教大師を見れば、夢の姿に少しも違うところはありませんでした。同じ大同四年(809)に、平城天皇は春頃より病いを患って、よくならなかったので、帝位をである東宮(第五十二代嵯峨天皇)に譲られて、太上天皇となられました。平城天皇の第三皇子である高岳親王を(嵯峨天皇の)東宮に立てられました。
(続く)